北陸道の要衝に置かれた古代越前の関。近江との国境付近にあり,敦賀市南部の山間部,追分,疋田,道口等に比定されているが不詳。東海道の伊勢国鈴鹿(すずか)関,東山道の美濃国不破(ふわ)関とともに三関の一つ。三関は天皇・太上天皇が没したり反乱の発生等のとき閉鎖され,京における反乱者の東国逃亡の防止をめざした。764年(天平宝字8)9月恵美押勝の乱のとき,押勝は子息辛加知が国守を務める越前に愛発関を通り入ろうとしたが,追討軍の先まわりのため入関を果たさず近江で捕らえられ斬られた。三関は789年(延暦8)7月停廃されたが,その後も806年3月桓武天皇が没した際には固守されている。しかし810年(弘仁1)9月平城上皇が平城京に移った薬子の変の際には愛発関にかわり近江国の関が固められている。これは逢坂(おうさか)関であり,愛発関は廃絶したらしい。以後の三関は鈴鹿・不破・逢坂関をさし,非常の際に固守されたがしだいに形式化していった。
→固関(こげん) →三関
執筆者:館野 和己
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越前(えちぜん)国敦賀(つるが)郡愛発村(福井県敦賀市)にあった古代の関所。伊勢(いせ)国(三重県)鈴鹿(すずか)関、美濃(みの)国(岐阜県)不破(ふわ)関とともに三関(さんかん)の一つ。北陸道に沿い、近江(おうみ)・越前国境の山中にあって軍事的性格の強い関所であった。789年(延暦8)7月、三関は停廃されたが、810年(弘仁1)9月以前、愛発関にかわって逢坂(おうさか)関(滋賀県大津市)が三故関の一つとなる。『続日本紀(しょくにほんぎ)』によれば、764年(天平宝字8)9月、恵美押勝(えみのおしかつ)(藤原仲麻呂(なかまろ))が謀反を企て、官印を奪って兵をあげるに及んで、淳仁(じゅんにん)天皇は三関を固めさせた。押勝は、その子越前守(えちぜんのかみ)恵美辛加知(しかち)の挙兵に呼応して近江に走った。しかし押勝は愛発関で物部広成(もののべのひろなり)に阻まれる。再度愛発関を指向したが、佐伯伊多智(さえきのいたち)に阻まれ、琵琶(びわ)湖を船で逃げる途中斬(き)られた。
[田名網宏]
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古代,越前国に設置された関。三関(さんげん)の一つ。位置については諸説ある。設置時期は天智朝とみるのが通説。764年(天平宝字8)の恵美押勝(えみのおしかつ)の乱の際には,愛発関において越前へ入ろうとする押勝軍と政府軍の間で戦闘が行われた。三関は789年(延暦8)に廃止されたが,その後も非常時の固関(こげん)は行われた。しかし810年(弘仁元)の固関使は越前国のかわりに近江国に派遣されており,この間に愛発関は停廃したと考えられる。
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