万斛村(読み)まんごくむら

日本歴史地名大系 「万斛村」の解説

万斛村
まんごくむら

[現在地名]浜松市積志町せきしちよう大島町おおしまちよう中郡町なかごおりちよう

安間あんま川右岸に位置。扇状地端にあたるため湧水があり、安間川の源流の一となっている。天竜川の氾濫原であるため旧河道が多い。万石・万国とも書く。大永六年(一五二六)一二月二八日の朝比奈泰能宛の寿桂尼朱印状(沢木文書)に「遠州みそのゝうち万石」とみえ、万石に所在する六郎左衛門屋敷が今川氏の砦城とされている。今川義元が天文一三年(一五四四)二月一九日付で朝比奈弥次郎、同一六年七月二一日付で万国百姓六郎左衛門尉に出した朱印状(同文書)によれば、六郎左衛門屋敷が砦城に改造されたのは信濃衆の遠江侵攻に伴う井伊谷いいのや(現引佐町)への押えとされたからで、棟別以下の諸役を免許されている。なお前掲寿桂尼朱印状によると六郎左衛門の抱える名田年貢四貫四〇〇文余は総持院(氏親弟心範)に納められていたようであるが、砦城取立ての間免除された。


万石村
まんごくむら

[現在地名]熊本市清水しみず町万石・清水本しみずほん

南流する坪井つぼい川流域低地から立田たつだ(一五一・六メートル)北および北西斜面に位置し、東は上立田かみたつだ村・宇留毛うるげ村、南は下立田しもたつだ村・宇留毛村、北は麻生田あそうだ村・亀井かめい村、西は松崎まつざき村・室園むろぞの村に接する。寛永一二年(一六三五)の地撫帳では坪井源右衛門手永に属し、元畝は田四反余・畠一一町二反余・山畑五町七反余、分米九二石四斗余、当竿前は田三反余・畠一一町一反余・山畑五町三反余、このほか野開が二町六反余とある。その後五町手永に属し、「国誌」に「柴原村篠原村等ノ小村アリ」とある。宝暦一〇年(一七六〇)の下ケ名寄帳では惣畝数二四町七反余、うち本方一六町八反余・新地二町七反余・諸開五町余、そのほかに一町八反余の兎谷地筒衆拝領地、八畝余の御掃除方支配地、一反六畝余の拝聖庵境内・薬師堂床・墓床・空地野がある。


万石村
まんごくむら

[現在地名]大垣市万石町・万石

東を揖斐いび川が南流し、大垣輪中の東部に位置する。北は波須はす村。切戸きれととも記したが、天和三年(一六八三)切戸村を万石村と改称(座右秘鑑)。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳に切戸村とみえ、村高二二一石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では「きれと村」と記す。正保郷帳では田高一八八石余・畑高四五石余。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳では万石村とみえ、高二六八石余。享和三年(一八〇三)の家数二四・人数一〇〇(新修大垣市史)。明治五年(一八七二)の万石村明細帳によれば、高二七六石余、田一四町三反余・畑五町六反余、家数二四・人数一〇八、馬四、医師一・小間物商一・米穀商一がおり、用水は北方の大島おおしまかき木戸きど大樋より取水。


万石村
まんごくむら

[現在地名]朝日村万石

飛騨川左岸、野麦街道沿いにかぶと村の東にある。慶長一〇年(一六〇五)飛騨国郷帳の阿多野あだの郷に村名がみえる。大広おおひろ村・黒川くろかわ村・浅井あさい村、立岩たていわ村の枝村桑野くわのの四村とともに高付され高二八二石余・物成高八四石余。元禄検地反歩帳の高一〇〇石余、四三町三反余・畑九町九反余。「飛騨国中案内」では免三割四分五厘、家数三三、うち百姓二五・門屋八。寛政一二年(一八〇〇)の田三七石余・畑七七石余、うち新田一三石余、反別田三町五反余・畑一二町三反余、家数三〇・人数一七一、猟師鉄砲三(村明細帳)


万石村
まんごくむら

[現在地名]木更津市万石・岩根いわね三―四丁目

高柳たかやなぎ村の北西に位置し、小櫃おびつ川最下流左岸を村域とする。中世は万石郷に含まれた。寛永三年(一六二六)田畑屋敷高辻帳(森家文書)に村名がみえ、高三二〇石余。反別は田二一町七反余・畑屋敷一八町六反余、山役塩四〇俵。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳によれば家数四八、与力二人の給知。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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