江戸前期の俳人。内藤氏。通称林右衛門。名は本常。別号仏幻庵(ぶつげんあん)、懶窩(らんか)、無懐、無辺、一風、太忘(たいぼう)軒など。尾張(おわり)犬山藩士で、青年時には漢詩を学び禅にも通じた。1688年(元禄1)病弱のため致仕、ついで遁世(とんせい)した。中村史邦(ふみくに)を頼り上洛(じょうらく)し、彼の紹介で芭蕉(ばしょう)に入門。数年で『猿蓑(さるみの)』(1691)に発句(ほっく)12句が入集(にっしゅう)し、跋(ばつ)を書くほどの実力を発揮した。93年には近江(おうみ)に移り、無名庵に住し、翌年芭蕉の終焉(しゅうえん)の枕頭(ちんとう)で「うづくまる薬の下の寒さ哉(かな)」の秀吟を詠んだことは著名である。師逝去後は3年の喪に服すことを決意し、『寝ころび草』を書き、ついで96年には義仲(ぎちゅう)寺の近く竜ヶ岡に仏幻庵を結び、清閑と孤独を愛した。1700年(元禄13)には郷里に帰省。帰庵後は病がちで閉関の誓いをたて、師追福の法華経(ほけきょう)千部の読誦(どくじゅ)、一字一石の経塚を発願(ほつがん)し、これを果たして翌元禄(げんろく)17年春2月24日に没した。篤実な性格で、清閑な境地を愛したが、一面洒脱(しゃだつ)でたくまざるユーモアがあった。追善集に『幻之庵(まぼろしのいお)』『鳰法華(におほっけ)』(七回忌)がある。
[雲英末雄]
『市橋鐸著「内藤丈草」(『俳句講座2 俳人評伝 上』所収・1958・明治書院)』
江戸前期の俳人。姓は内藤,名は本常,通称は林右衛門。仏幻庵,懶窩(らんか)などの別号がある。元尾張犬山藩士。10歳のころ俳諧に親しみ,20歳ころから禅に傾倒する。1688年(元禄1)8月,病気を理由に致仕(異母弟に家督を譲るためとも伝える)。すでに1686年(貞享3)冬には芭蕉に句を送り指導を請うていたが,致仕後は京に出,幼なじみの史邦(ふみくに)の紹介で去来と親交を結ぶ。91年刊の去来・凡兆撰《猿蓑(さるみの)》には跋文を草し,蕉門俳壇の中でしだいに重きをなし,芭蕉の信頼も得た。94年,芭蕉臨終の枕辺での〈うづくまる薬の下の寒さ哉〉が〈丈草出来(でかし)たり〉と師の称賛を得た話(《去来抄》など)は有名である。芭蕉没後3年間の心喪に服し,96年膳所(ぜぜ)の近く竜ヶ岡の西に仏幻庵を結んだ。芭蕉の〈さび〉を最もよく伝えた人物と賞されるが,同時にユーモラスな句も多い。編著は,随筆《寝ころび草》,漢詩集《驢鳴(ろめい)草》などがあるが,生前に刊行されたものはない。〈大原や蝶(てふ)のでて舞ふ朧月〉(《北の山》)。
執筆者:桜井 武次郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 日外アソシエーツ「動植物名よみかた辞典 普及版」動植物名よみかた辞典 普及版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…許六の〈師の説〉に〈十哲の門人〉と見えるが,だれを数えるかは記されていない。その顔ぶれは諸書により異同があるが,1832年(天保3)刊の青々編《続俳家奇人談》に掲げられた蕪村の賛画にある,其角,嵐雪,去来,丈草,許六(きよりく),杉風(さんぷう),支考,野坡(やば),越人(えつじん),北枝(各項参照)をあげるのがふつうである。【石川 八朗】。…
※「丈草」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新