丈部郷(読み)はせつかべごう

日本歴史地名大系 「丈部郷」の解説

丈部郷
はせつかべごう

和名抄」所載の郷で、高山寺本は波世豆加比、東急本では波世豆加倍と訓じ、名博本ではハセツカヒとする。郷名は大化前代に当地に置かれた丈部にちなむと考えられ、当郷に関係した資料に丈部は検出されていないが、同じ長狭郡内の置津おきつ郷や酒井さかい郷にはみられ、また「万葉集」巻二〇には同郡の防人として丈部与呂麿があげられている。置津郷が記される平城京(二条大路大溝)跡出土木簡には長狭郡の郡司少領として外正八位上の位階をもつ「丈部(臣カ)□敷」が記されている。丈部氏のうち直姓の郡司層は東国に多く、その祖は大化前代国造あるいはそれに準ずる豪族で、丈部の伴造と考えられており、当郡の郡司少領「丈部(臣)氏」もそれに類すると推測される。


丈部郷
はせつかべごう

「和名抄」所載の郷。高山寺本は「今亡」と注記し、東急本は郷名を「大部」とする。ともに訓を欠く。郷順は川枯かわかれ郷に次ぎ、車持くるまもち郷の前に位置する。「丈部」はおおやぶとともに奈良東大寺の庄園名と一致しており、「大部」はその誤写とみてよい。同名の郷は安房国長狭ながさ郡、美濃国不破ふわ郡、下野国河内かわち郡・芳賀はが郡にみえ、長狭郡丈部郷では訓を「波世豆加比」(高山寺本)、「波世豆加倍」(東急本)とする。これにより古代にはハセツカヒかハセツカヘの読みが妥当となるが、ここでは後者に従う。


丈部郷
はせつかべごう

「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。同書の安房国長狭郡丈部郷には「波世豆加倍」「波世豆加比」の訓が付されているので、「はせつかべ」「はせつかい」両様の訓じ方があるが、便宜上前者に従っておく。丈部とは大化(六四五―六五〇)前代から宮廷の警固や雑使に当たった部で、埼玉県稲荷山いなりやま古墳出土鉄剣銘文にみえる「杖刀人」とも関連があるとされる。


丈部郷
はせつかいべごう

「和名抄」高山寺本には「大部」とあるが、東急本の「丈部」を採る。「丈」は「杖」の省略表記で、「馳せ使い部」の意味であるが、諸国の同名郷の訓によると、ハセツカイあるいはハセツカベに変わっていたかもしれない。比定地未詳。ただし「日本地理志料」などは「丈部」を「文部」の書誤りとみ、現垂井たるい綾戸あやどを中心とする一帯に比定している。


丈部郷
はせつかべごう

「和名抄」東急本・高山寺本ともに訓を欠く。「はせつかい」の訓も可能性があり、河内かわち郡にも同名の郷がある。丈部は大化(六四五―六五〇)前代から宮廷の警固や雑使を担当した部で、埼玉県稲荷山いなりやま古墳出土鉄剣銘にみえる「杖刀人」とも関連があるとされる。当郷も丈部が設置されたことに由来すると思われる。丈部に関しては、「万葉集」巻二〇に天平勝宝七年(七五五)に筑紫に差遣された防人として塩屋しおや郡の上丁丈部足人の名がみえ、「続日本後紀」承和一〇年(八四三)一二月一日条には、勧農の功によって外従五位下を仮授された那須郡大領丈部益野の名が、同書同七年二月一六日条には、下毛野陸奥公の姓を与えられたことにより下野国あるいは下毛野氏との関係が推測される陸奥国人丈部継成の名が記されるが、いずれも当郷との関係は明らかでない。


丈部郷
はせつかべごう

「和名抄」諸本とも「丈几」と記すが、訓を欠く。「丈几」は「丈」の誤記で、「」は「部」の異体字。「日本地理志料」は現東磐井郡西部・一関市東端などにわたる地とし、「大日本地名辞書」は同郡内の砂鉄さてつ川上流の地としているが、いずれも未詳。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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