改訂新版 世界大百科事典 「三博士の参拝」の意味・わかりやすい解説
三博士の参拝 (さんはかせのさんぱい)
Adoration of the Magi
〈マギの礼拝〉〈三王来朝〉などともいう。《マタイによる福音書》2章1~12節によると,東方の博士たち(マギ)はエルサレムを訪れ,この世に生まれたユダヤの王を訪ねる。彼らはヘロデ王の命もうけ,不思議な星に導かれてベツレヘムの幼子キリストと母マリアの下に着き,礼拝し,贈物を献じる。これが〈(三)博士の参拝〉で,この記述が新約聖書中唯一のものである。このほか外典の《ヤコブ原福音書》(21章),《偽マタイ福音書》(16章)にも言及がある。歴史的には,博士たちは占星術師で,ペルシアの司祭たちとされる。《詩篇》72章11節の〈王たちはみな,かれを拝み,異邦の民はみな,かれに仕える〉に基づき,〈賢王〉参拝とも呼称される。
《マタイによる福音書》では博士の人数に触れず,3世紀の聖ペトルスとマルケリヌスのカタコンベでは二博士が表現される。4世紀のドミティラのカタコンベでは四博士,シリアの教会ではイスラエルの十二部族や十二使徒に合わせ十二博士を表現。しかし,すでに3世紀のアレクサンドリアの神学者オリゲネスが,《マタイによる福音書》の語る三つの贈物を根拠に,博士の数を3人と指摘したため,古くからキリスト教の図像表現では3人説が慣習化した。三博士の名まえがラテン語でガスパルGaspar(またはカスパルCaspar),バルタザルBalthazar(Balthasar),メルキオルMelchiorとされたのは6世紀の《ラテン語による異邦人抜粋Excerpta latina barbari》にさかのぼるといわれ,同世紀のラベンナのサンタポリナーレ・ヌオボ教会のモザイクには三博士の頭上にこれらの名まえが明記されている。中世初期以来,ガスパルは老年,バルタザルは中年,メルキオルは青年と,年齢を区別して表された。また3人は12世紀以来,多くヨーロッパ,アフリカ,アジアの3大陸の代表者として描かれることもあるが(12世紀のスペインの写本),その一人が黒人のムーア人の王として登場するのは15世紀以降である。7~8世紀のイギリスの神学者ベーダによると,三博士の贈物は象徴的な意味を有し,金は王権,乳香は神性,没薬は受難の死を意味している,という。
〈三博士の参拝〉の図像
初期キリスト教時代のカタコンベや石棺では,王座に座し,ひざに幼子キリストを抱く聖母の前に,同形態の三博士が急ぎ足に来朝する(ラクダを伴うこともある)。初期ビザンティン美術,たとえば前述のラベンナのサンタポリナーレ・ヌオボ教会では贈物にも変化が見られる。東方ではカッパドキアのギョレメの壁画(10世紀)のように,星を示す天使,王座の聖母子,顔は正面,身体はひざを曲げた側面表現の三博士が特色で,三博士は聖母子と同様光背を有する。西欧中世では,オットー朝美術のタイプとして宮殿式建築での儀式風な参拝図が多い。ゴシック時代には教会堂正面のタンパンおよび扉口支柱の浮彫,ステンド・グラスなどに,天蓋の下に座し,神の母として王冠をつけた聖母と,地面にひざをつく博士たちが表される(ガスパルのみひざまずき,他の2人は立つ図像も見られる)。1300年ころから,家や家畜小屋(ジョット),廃墟(崩壊するユダヤ教の意味)が写美的に描かれる。中世後期では聖史劇(ミステール)の影響もうけ,博士たちの衣服は豪華な異国風俗の贅をこらす。博士たちは旅をする騎馬姿をとり,お伴の動物としてラクダ,犬,ヒョウなども登場する。ルネサンスには,遠方からの旅を強調した風景表現(デューラー,マンテーニャ)や,多くの従臣を伴った王,見物人としての群衆も加わるなど,構図が複雑化する(レオナルド・ダ・ビンチ)。なお教会暦では〈三博士の参拝〉の日を公現祭(1月6日)として祝うため,雪の積もった冬景色という季節感を画面に導入する画家もいる(ブリューゲル)。また,ゴッツォリやボッティチェリのように,博士や従臣たちにメディチ家の一族や歴史上ならびに同時代の著名人の肖像を描くなど,世俗化の傾向も見られた。
執筆者:森 洋子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報