アッシリア帝国を滅ぼし,イラン高原からアナトリア東部を統一した古代西アジアの強国。メディア人は西イラン族に属し,前1000年ころイラン高原北西部に移動してきた。前835年以来,アッシリアの遠征記録に繰返し現れる。当時,ザーグロス山中のイラン・クルディスタンからテヘラン付近まで分布していた。騎馬遊牧民として馬の飼育に優れ,とくにニサ地方の馬は古代世界において有名であった。ヘロドトスはエクバタナを首都とするメディア王国の建国者をデイオケスDēiokēsとしている。前715年アッシリアのサルゴン2世に反乱指導者として捕らえられ,シリアに追放されたダヤウックDajaukkuはデイオケスのことであったと考えられる。ヘロドトスは4代の王名を伝えているが,実際は5代あるいは6代続いたらしい。メディア国家の発展はアッシリアの侵入に対する抵抗運動を通じて促された。前674年ころ,フラオルテスPhraortēsはメディアとマンナイ,キンメリア人の連合を組織してアッシリアに反撃を開始した。ペルシア人の征服も彼の時代に行われた。帝国的発展はキュアクサレスKyaxarēs(在位,前625-前585)によって達成された。彼は軍隊を槍兵,弓兵,騎兵に再編成し,新バビロニアと同盟を結び,前612年にニネベを攻略してアッシリア帝国を滅ぼした。その後,ウラルトゥとマンナイを征服し,アナトリアに進出してリュディア王国と戦ったが,タレスの予言で有名な前585年5月28日の皆既日食によって休戦し,ハリュス川を国境とする条約を取り交した。次のアステュアゲスAstyagēs(在位,前585-前550)は種族連合的性格を有していた国家の中央集権化に努めたが成功せず,ペルシアのキュロス2世に滅ぼされた。しかし,メディアの制度や文化はペルシアに受け継がれ,メディア人はペルシア帝国において重用された。メディアの遺跡としてはヌシ・ジャン,ババ・ジャン,ゴディン・テペが発掘されている。
執筆者:佐藤 進
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