フランドルの画家。大ブリューゲルと通称。Brueghel,Breughelとも綴る。生年は1525年から30年の間とされる。1545年ころアントワープのP.クックの工房に入門。50年,メヘレンのシント・ロンバウト大聖堂の〈手袋製造業者の祭壇画〉をバルテンスP.Baltensと共同制作(今日紛失)。51年アントワープの聖ルカ組合(画家組合)に自由親方として登録。52年から54年ないし55年までイタリア旅行。ローマでクロビオG.Clovioの工房で共同制作をする。帰国後,アントワープのH.コックの版画店〈四方の風〉で版画のための下絵画家として働く。最初アルプスの大風景画シリーズを手がける。やがて56年から人物コンポジションに転向し,宗教的主題《七つの罪源》《七つの徳目》,寓意的主題《誰でも》《錬金術》,市民や農民の祝祭や風俗を描く《阿呆祭り》《ホボケンの縁日》などを制作。他方,59年ころから油彩画時代が始まり,約85種の諺を盛り込んだ《ネーデルラントの諺》,市民の祝祭行事とその風俗を描く《謝肉祭と四旬節の喧嘩》,九十数種の遊びを収集した《子供の遊戯》などで群衆構図に関心をもつ。61年の《反逆天使の転落》《悪女フリート》などで先人H.ボス風の怪奇的,幻想的モティーフを駆使する。63年アントワープを去り,ブリュッセルへ移住し,師クックの娘と結婚。同年から翌年にかけてグランベルA.P.de Granvelle枢機卿の庇護をうける。異端(プロテスタント)弾圧側に立つ同枢機卿とブリューゲルとの関係はその作品解釈の上で重要な意味をもつ。65年6点セットの《季節画シリーズ》を制作し,絵画史上注目すべき季節的情趣のあふれた自然と農民の野良仕事を描く。近年,16世紀前半のフランドルの時禱書との図像的な依存関係と彼の独自性の両面が研究者の関心となっている。次いで宗教画《ベツレヘムの幼児虐殺》《ベツレヘムの人口調査》などで,ブリューゲルは厳冬のフランドルの農村をその舞台に選ぶ。晩年は《農民の婚宴》《農民の踊り》など農民の生活を精力的に描き,同時に《怠け者の天国》《盲人の寓話》のような,人間の実存を直視した寓意画の世界を樹立した。
彼は数年間イタリアに滞在しながら,師クックやF.フローリスのようなロマニスト(イタリア・ルネサンス様式をフランドルの地に導入した一群の画家)にならず,生涯フランドルの民衆文化や伝統をその宗教画,風景画,寓意画,風俗画に表し,独自の造型言語を確立した。かつては〈農民画家〉とあだ名されたが,ブリューゲルはけっして農民出身の素朴な画家ではなかった。むしろ,徒弟時代は国際商業都市アントワープに,後年は政治の中心地ブリュッセルで過ごした都会人であり,当時の〈詩人クラブRederijkerskamer〉の戯曲を愛読し,コールンヘルトD.V.Coornhertの道徳哲学に通暁し,農民の生活に人間の根源性を追求するルネサンス・ヒューマニストであった。
長男ピーテル(2世)Pieter B.(1564-1638)はブリュッセルの生れ。父の没後,父の作品の人気が高まる中で,9人の助手たちとともにその作品のコピーを量産したり,版画のタブロー化を行った。たとえば《鳥罠のある冬景色》は50点以上のコピーが知られている。その反面,父のモティーフを組み合わせた合成画やピーテル2世のオリジナルな構図の作品は,父の作品よりも絵画的価値は劣るものの,当時のフランドルの農民の衣服,調度品,生活空間を詳細かつ忠実に伝えていて興味深い。画家組合への登録は1585年。〈地獄のブリューゲル〉とあだ名されたが,地獄図を実際に描いたのは弟のヤンである。次男ヤンJan B.(1568-1625)もブリュッセルの生れ。ブリューゲル一族でもっとも才能に恵まれた画家で,〈花のブリューゲル〉〈ビロードのブリューゲル〉〈天国のブリューゲル〉の異名をもつ。壺に咲き乱れる四季の花々を描くのを得意とし,その色彩はビロードのような光沢をもち,森,湖水,花園の表現(五感のうち〈嗅覚〉のアレゴリー)は,あたかも天国を描いているようだといわれる。ときにはルーベンスの聖母子画に花輪を描き,彼と共同制作をする。ネーデルラント総督アルベルト大公の宮廷画家となり,父とは違って,《若いトビアのいる風景》にみられるような貴族のレクリエーションや生活をも描く。
大ブリューゲルの孫の世代では,ヤンの息子たち,ヤン(2世)Jan B.(1601-78)とアンブロシウスAmbrosius B.(1617-75)が同じく花の絵で画才を示した。ヤン(2世)の子アブラハムAbraham B.(1631-97)は長年ローマに滞在し,ナポリで客死。彼の絵は先人たちの一種の宗教的雰囲気を伝える花の絵と違って,イタリア・バロックの開かれた空間との融合をめざす。ヤンの娘パスカシアの子ヤン・ファン・ケッセルJan van Kessel(1626-79)はクジャク,ライオン,ヒョウなどの動物画を得意とし,昆虫,チョウ,貝の絵では〈現実のイリュージョン〉を思わせるみごとな描写を行っている。最後に,ヤンの娘アンナと結婚したダーフィト・テニールス2世も普通ブリューゲル一族に加えられるが,18世紀の美術批評では大ブリューゲルより優れた画家との評価を得ていた。事実,大ブリューゲルが注目され,その美術史上の地位が確立されるのは,20世紀初頭のファン・バステラールR.van Bastelaerとユラン・ド・ローG.Hulin de Loo共著の研究書(1907)以後のことである。
執筆者:森 洋子
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16~17世紀に多くの画家を出したネーデルラントの一家。なかでも「大ブリューゲル」あるいは「百姓ブリューゲル」とよばれ、16世紀末ネーデルラント最大の画家となったペーテル・ブリューゲル1世と、その子ペーテル2世およびヤンの3人が傑出している。
[嘉門安雄]
Pieter Bruegel d. Al.(1528ころ―69)農民の子として、おそらく現オランダの北ブラバント州スヘルトゥヘンボックスの近くに生まれたと思われる。初めペーテル・クックの、ついでヒエロニムス・コックの弟子となった。のちフランスとイタリアに遊学し、もともとファン・アイク以来の北欧自然主義から出発した彼は、イタリア遊学途上のアルプスの風景に深く打たれた。帰国したのは1553年で、アントウェルペンで制作し、1563年に結婚してからはブリュッセルに移り、ここを活動の本拠地とした。
初期には、おもに民間伝説、習慣、迷信などをテーマにしていたが、ブリュッセルに移ってからは、農民戦争下の社会の不安と混乱、そしてスペイン本国の過酷な圧制に対する激しい怒りなどを、宗教的題材に託した作品が多くなった。しかし、その後はしだいに構図は単純化され、人物の数も減って、劇的要素を捨てて、純粋に写実的に、ときに比喩(ひゆ)的に、農民生活の実相を描くようになった。そして、大地と宿命的に深く結び付き、その宿命のなかに素朴に愚直に生きる農民を、高いヒューマニズムの精神と鋭い社会批判の目から描いた。最初の農民画家といわれるゆえんであり、「百姓ブリューゲル」の通称もここからきている。
現存する作品のうち、版画に比して油彩画は50点に満たない。だがその一作一作は、北方伝統の写実性とイタリアに学んだ厳しい線描のなかに独特のスタイルと味わいを示している。とくにウィーン美術史博物館に多く収められ、『謝肉祭と四旬節の争い』『子供の遊戯』『バベルの塔』、四季の農村を描いた3点(残りの1点はニューヨークのメトロポリタン美術館)、『嬰児(えいじ)虐殺』『農民の踊り』『田舎(いなか)の結婚式』などがあり、ほかにベルリン絵画館の『ネーデルラントのことわざ』、ブリュッセル王立美術館の『反逆天使の失墜』、ナポリ、カーポディモンテ美術館の『盲人たち』などが傑作として有名である。1569年9月9日、ブリュッセルで没。
[嘉門安雄]
Pieter Bruegel d. J.(1564―1638)大ブリューゲルの長子としてブリュッセルに生まれる。アントウェルペンに没。父のような題材のほかに、空想的、あるいは怪奇な場面などを描いて「地獄のブリューゲル」ともよばれている。彼はまた父のコピーもしている。
[嘉門安雄]
Jan Bruegel d. Ae.(1568―1625)大ブリューゲルの二男で、ペーテル2世の弟。ブリュッセルに生まれ、アントウェルペンに没。早く父を失い、長じてイタリアに旅し、1597年にはアントウェルペンの画家組合に登録され、1602年には組合長になった。その後ルーベンスと親交を結び、その同僚・協力者として働いている。彼は風景画的要素の多い宗教的題材の作品も描いているが、とくに緻密(ちみつ)な手法によって花の描写に優れ、ルーベンスへの協力も主としてその面からである。そのため「花のブリューゲル」とか「ビロードのブリューゲル」とよばれている。作品はヨーロッパ各地にみられるが、ロンドンのナショナル・ギャラリーをはじめイギリスにもっとも多い。同名の子ヤン2世(1601―78)も画家。
[嘉門安雄]
『土方定一著『ブリューゲル』(1963・美術出版社)』▽『西沢信彌解説『大系世界の美術15 北方ルネサンス』(1973・学習研究社)』▽『森洋子編著『ブリューゲル全作品』(1987・中央公論社)』
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… アルプス以北では,〈放蕩息子〉(ルーカス・ファン・レイデン)や〈盲人の寓話〉などの聖書の主題は,字義的,寓意的,教訓的,秘義的の四重に注解されることが少なくない。ブリューゲルが《盲人の寓話》(1568ころ)を描いたとき,偽預言者に惑わされ,正しい宗教に盲目な人間精神への警鐘というアレゴリーは明白である(同時代のカトリックの詩人アンナ・ベインスの《リフレイン詩集》にもうたわれる)。またクラーナハが量産した《不似合いなカップル》は老人の〈情欲〉と財産目当ての若い娘の〈貪欲〉や〈裏切り〉を風刺し,《パリスの審判》は若者たちに活動的・瞑想的・快楽的人生の選択を説くなど,宗教改革期のドイツらしいアレゴリーが流布した。…
…高い教養の持主であった彼は,ウィトルウィウスの《建築十書》の要約,セルリオの《建築論》のオランダ,フランス語訳を行い,49年のフェリペ2世のアントワープ訪問を記念した《勝利の入場》などを出版。後妻マイケンMaykenも著名な細密画家であり,弟子で娘婿にピーテル・ブリューゲル(父)がいる。【森 洋子】。…
…神話や聖書のイメージを用い,密林や森に生息するエキゾティックな動植物を描きこんだ幻想的な風景画を得意とした。その様式はブリューゲル(父)やボルHans Bol,ファン・コニンクスローなどの影響を受ける。88点のブリューゲルの《実景より》の素描がサフェリーの作品とする学説(1970)以来,美術史上急速に注目を浴びるようになる。…
… 食物連鎖図のかかれた最初は,1913年のV.E.シェルフォードによるアメリカ合衆国イリノイ温帯草原についてのものといわれ,一方,日本での食物連鎖図の最初は,可児藤吉(1908‐44)が1938年にかいた水生昆虫を中心とする渓流生物についてのものだろう。ちなみに芸術作品には,もっと古い時期から食物連鎖をあらわしたものがあって,例えば《ガリバー旅行記》の著者のスウィフトには〈ノミの体にゃ血を吸う小さいノミ,小さいノミにはその血を吸う細っかいノミ,こうして無限に続いてる〉という詩があるし,16世紀フランドルの画家大ブリューゲルの作《大きい魚は小さい魚を食う》は,つとに有名である。 食物連鎖の関係を一つの突破口として群集の研究を進めようとしたのは,イギリスのC.S.エルトンであった。…
…イタリアの民衆版画《さかさまの世界》では,羊が羊飼いの髪を刈り,荷車の後から牛が歩くといった寓意表現によって,人間の〈無知〉や〈愚行〉を風刺している。フランドルではP.ブリューゲル(父)が《怠け者の天国》で,書記(知識人),兵士,農民(労働者)など人間社会の代表的階級を描きつつ,人間だれもがもつ〈怠惰心〉と〈空想のユートピア〉を風刺した。 〈風俗画の世紀〉とよばれる17世紀のオランダ絵画では,画家は日常生活の営みに見いだせる矛盾,誤謬(ごびゆう),悪習を追求する。…
… 北方ではH.ボスが《手品師》で騙(だま)されやすい人間,《阿呆船》で快楽にふける聖職者への風刺(つまり中世的な教訓)をこめながらも,宗教的枠組みから主題を解放した。ボスの伝統を継承するP.ブリューゲル(父)はフランドルの諺,子どもの遊戯,農民の婚宴や祝祭を表し,庶民のバイタリティ,日常の知恵,生活文化を記念碑化した。ブリューゲルの築いた風俗画の世界は,17世紀オランダ,フランドルにおいて絵画史上の黄金時代を迎える。…
…ただしパティニールに始まる16世紀の風景画は観察と想像をとりまぜて構成されており,色彩遠近法を図式化して前景・中景・後景を,褐色・緑・青に塗り分けている。16世紀中葉ピーテル・ブリューゲルはイタリア旅行とアルプスの雄大な景観の印象を十分に消化したうえで,フランドルの諺や習俗,季節の推移と結びついた農民の生活などにモニュメンタルな表現を与え,風俗画・風景画の確立に決定的な足跡を記した。 フランドルには16世紀末の北部ネーデルラントにおけるような〈国際マニエリスム〉は認められず,この傾向の中心人物の一人B.スプランヘルはフランドル出身ではあるが国外,主としてプラハのルドルフ2世の宮廷で活動した。…
※「ブリューゲル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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