福音書(《マタイによる福音書》21~27章,《マルコによる福音書》11~15章,《ルカによる福音書》19~23章,《ヨハネによる福音書》12~19章)の記述によると,宣教の旅の最後にエルサレムに至ったイエス・キリストは,そこで逮捕されて裁かれ,虐待を受けた後,十字架上で刑死した。キリスト教では,この間にイエスが受けた苦難を〈受難〉と呼び,これによって人間の原罪をイエスが贖(あがな)ったと考える。キリスト教会では,エルサレム入城の日曜日を〈枝の主日〉,その日から復活祭の前日までの1週間を〈聖週間〉と呼ぶ。磔刑の日とされる,その週の金曜日を〈聖金曜日(受難日)Good Friday〉として記念し,典礼を行う。
受難の苦しみを追体験することは信仰の基礎であるため,受難のありさまは古くから美術の重要な主題となった。《ブレシアの聖遺物箱》(4世紀後半)の浮彫装飾には,旧約・新約の諸場面とともにいくつかの受難場面が見られる。また,ローマ,サンタ・サビーナ教会の木製扉(5世紀前半)には,現存最古の〈磔刑〉場面が浮彫されている。中世初期以来,受難伝は教会堂の装飾や写本画などに数多く描かれて発展し,受難伝だけが独立して表されることも多くなった。主要な場面としては〈エルサレム入城〉〈ユダの裏切り〉〈最後の晩餐〉〈ゲッセマネの祈り〉〈キリスト逮捕〉〈ペテロの否認〉〈ピラトの審問〉〈カヤパの審問〉〈ユダの死〉〈むち打ち・あざけり〉〈いばらの冠〉〈十字架かつぎ(十字架の道行)〉〈磔刑〉などがあり,このほかこれに付随する諸場面も見られる。有名な受難図には,ラベンナのサンタポリナーレ・ヌオボ教会のモザイク(6世紀),多くの場面を持つドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャの《マエスタ》(1308-11),ジョットの描いたパドバのスクロベーニ礼拝堂のフレスコ壁画(1305-06)などがある。このほか,S.マルティーニの《十字架かつぎ》(1340ころ),レオナルド・ダ・ビンチの《最後の晩餐》(1495-98ころ),ティントレットの《ピラトの前のキリスト》(1566-67ころ),ルーベンスの《キリスト昇架》(1609-10)と《キリスト降架》(1614)など,受難伝の一場面をとりあげた名作も数多い。
執筆者:浅野 和生
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キリストの受難と贖罪(しょくざい)死は『旧約聖書』の預言の中心的な主題であった(「イザヤ書」50章6、53章5を「ルカ伝福音書(ふくいんしょ)」24章25~27、「使徒行伝(ぎょうでん)」3章18、8章32~35と比較)。したがって旧約の預言の成就(じょうじゅ)を記す『新約聖書』には、キリストの最期に至る受難の記事は詳しく記されている(「マタイ伝福音書」26~27章、「マルコ伝福音書」14~15章、「ルカ伝福音書」22~23章)。そこにはキリスト教の信仰にとって中心的なもっとも重要な事件が記されているだけに、わずか2日間のできごとではあるが、非常に詳しく書かれている。それは過越祭(すぎこしのまつり)の2日前からのことであって、ユダの裏切りから書き始め、弟子たちとの最後の晩餐(ばんさん)、ゲツセマネの園の祈り、逮捕、ユダヤ議会における審問、ペテロの否認、ピラトの裁判、むち打ち、いばらの冠、十字架背負い、処刑、死、埋葬と続いている。
[野口 誠]
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…聖書に記されたイエス・キリストの受難の物語を音楽化した作品をいう。受難曲は,本来四つの福音書のいずれかをテキストとして作曲されるものであるが,なかでも《マタイによる福音書》と《ヨハネによる福音書》によるものに古今の名曲が多い。これは,マタイの記述が叙事的広がりと劇的な物語性に富み,ヨハネの記述は簡潔ながら意味深く緊迫した場面の連鎖をなすからであると思われる。古くは四つの福音書の記述を総合したテキスト〈スンマ・パッシオニスsumma passionis〉に作曲することも行われた。…
…つまり〈感情〉が強まりそれがはっきり身体に現れるほどになったとき〈情動〉と呼ばれ,またさらにいっそう激化して感情の自然の流れがせき止められ苦悩にさらされるようになるとき〈情念〉と呼ばれる。だが情念の問題は,それが同時に〈受動〉〈受苦〉〈受難〉を意味することに示されるように,心理学を超えて,もっと広くてダイナミックな人間論的な広がりをもっている。そこで,情念がなぜ同時に〈受動〉〈受苦〉〈受難〉などを意味しうるかであるが,それを明らかにするにはどうしても語源にさかのぼることが必要である。…
※「受難」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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