三島郷(読み)みしまごう

日本歴史地名大系 「三島郷」の解説

三島郷
みしまごう

和名抄」諸本にみえる郷名。高山寺本・東急本・名博本は「三嶋」につくる。訓を欠くが、越中国射水いみず郡三島郷の訓「美之万」と同じであろう。「日本書紀」天武四年(六七五)四月一八日条に三位麻続王の一子が「伊豆嶋」に流されたことがみえ、同書同六年四月一一日条には杙田史名倉くいたのふびとなぐらが天皇を指斥したことにより「伊豆嶋」に流されたとある。「続日本紀」文武三年(六九九)五月二四日条では役君小角が、同書養老六年(七二二)正月二〇日条では謀反を誣告した正四位上多治比真人三宅麻呂が斬刑から死一等を免じられ、ともに「伊豆嶋」に配流されている。さらに同書天平一三年(七四一)三月九日条に外従五位下小野朝臣東人が「伊豆三嶋」に、同書同一四年一〇月一七日条に塩焼王が「伊豆国三嶋」に配流されたことがみえる。これらは当郷に相当すると考えられ、七世紀には「伊豆嶋」、八世紀中頃から「伊豆三嶋」と変化している。


三島郷
みしまごう

「和名抄」所載の郷。訓は東急本に「美之万」とある。郷名は正倉院に伝存する年次未詳の紙箋(断片)に「越中国射水郡三嶋郷戸主射水臣」とみえ、奈良時代に成立していたことを裏付ける。時期は天平勝宝期(七四九―七五七)で、調綿の輸納に関するものと推定されるが、当郷の氏族として射水臣氏の存在を伝える点でも重要といえる。三島を冠する地名に三島野があり、「万葉集」巻一七の「放逸せる鷹を思ひて、夢に見て感悦びて作る歌一首」に「三嶋野」、続いて短歌に「美之麻野」がみえる。三島野の故地について、「三州志」は「二口村領に古の三嶋野と口碑する処あり」とし、「越中志徴」は「今東条郷二口村・堀内村・本江村、此三村の領田の字に三嶋といえる地あり」として本江ほんごう(現大門町)を三島郷の本郷とみる。


三島郷
みしまごう

「和名抄」東急本は「美之万」と訓を付す。「延喜式」兵部省諸国駅伝馬条には北陸道の三島駅がみえ、同書神名帳には「御嶋石部みしまのいそべの神社」「三嶋みしまの神社」を載せる。「大日本史国郡志」は「今三島谷村、在郡西南」とする。


三島郷
みしまごう

「和名抄」高山寺本にはみえず、刊本に「三島」と記し、その慶安元年板は「ミシマ」と仮名を付す。

現萩市の西北、海上約四六キロ離れた孤島で、一島を一郷に編成したものである。島内見島八幡宮所蔵の至徳四年(一三八七)の金鼓銘に「大津郡見嶋郷」とみえ、また島内にあった皇子宮所蔵の嘉慶二年(一三八八)金鼓銘に「大津郡三島郷」とみえるから、室町時代には「見嶋」あるいは「三島」と併用されていたのであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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