出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報
紀ノ川河口平野の南部にそびえる
〈大和・紀伊寺院神社大事典〉
寺伝の縁起(紀伊国名所図会)によれば、開基為光は唐国の僧であるが、仏法弘通を志して来朝、勝地を求めて当山に至り、
草創以後、中世末に至る文書は天正の兵乱に失われたといい、記録に乏しいが、諸書に散見する記録によって沿革をうかがうことにする。嘉禎四年(一二三八)九月二五日の日前・国懸宮四方指写(日前宮文書)によれば、毛見郷は同宮領に属し、名草山は「三井之神山」と称されている。日前国懸宮神主家第五七代国造紀俊文の詠歌にも「名草山とるや榊のつきもせず神わざしげき日のくまの宮」とあり(風雅集)、名草山は
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
和歌山市の南部,名草山の中腹にある寺。西国三十三所第2番の札所。紀三井山金剛宝寺と号し,護国院を正称とする。紀三井寺の称は,山内3ヵ所の霊泉にちなむというが,付近の地名〈毛見(けみ)〉にもとづく毛見寺より出たものか。寺伝では,770年(宝亀1)唐僧為光(いこう)の開創というが,それを裏づける史料遺物がなく,本尊十一面観音像の作風から見て,平安中期の開創であろう。文献では行尊の巡礼記に見え,平安末期には観音霊場として知られた。中世には法橋と称する俗体僧(14人)が寺を管理し,穀屋比丘尼が堂塔修理の勧進に当たった。豊臣秀吉の南征後,本願坊(護国院の前身)が創建され,真言宗勧修寺末に属したが,第2次大戦後独立して救世観音宗総本山となり,末寺14ヵ寺を包括。本尊以下仏像5体(藤原時代),楼門・多宝塔(室町時代),鐘楼(桃山時代)が重要文化財に指定されている。
執筆者:薗田 香融
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和歌山市紀三井寺にある寺。真言宗系の救世観音(ぐぜかんのん)宗の本山。紀三井山金剛宝寺護国院(こんごうほうじごこくいん)が正式名称。境内に三つの清泉があり、滋賀県の三井寺(園城寺(おんじょうじ))と区別して、紀三井寺とよばれる。西国(さいごく)三十三所第2番札所。770年(宝亀1)唐の僧、為光が来日、十一面観音を安置して開創したと伝える。平安時代には花山(かざん)法皇の第2番札所指定、後白河(ごしらかわ)法皇の勅願所、鳥羽(とば)法皇の臨幸などがあった。鎌倉時代、叡尊(えいそん)を招いて梵網戒(ぼんもうかい)を説かしめ、神宮領19郷の殺生禁断状を捧(ささ)げた。山名、桑山、浅野、徳川氏など代々の領主が保護した。楼門、鐘楼、多宝塔、千手観音(せんじゅかんのん)像(奈良時代の為光作と伝えるが、藤原中期のもの)、十一面観音像2体、梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)像は国の重要文化財。境内には松尾芭蕉(ばしょう)をはじめ俳人の句碑が多い。
[田村晃祐]
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