日本歴史地名大系 「和田庄」の解説
和田庄
みきたのしよう
大鳥郡
平安末期に和田氏の祖先大中臣助正が河内国
その後助綱の子助盛はより強力な庇護を求めて、金剛寺より証文を取返し、奈良興福寺僧宗春と図り、当時の和泉国司平兼高の許可を得て貞永元年(一二三二)四月奈良春日社に寄進、さらに興福寺
和田庄
わだのしよう
保延元年(一一三五)八月一一日、勧修寺光房は父為隆の時代に平忠盛から手継文書をもって伝領した和田庄を皇嘉門院(藤原忠通娘聖子)に寄進した。これは皇嘉門院を本所と仰いで国司の収公を免れ、「永以子々孫々為預所」ための措置であった。この後、本家・領家職は忠通の三男兼実に始まる九条家、預所職は勧修寺家が相伝領掌した(貞和四年正月二日「文殿勘状」園太暦同五年二月二五日条)。
正治二年(一二〇〇)二月二八日付勧修寺経房処分状案(年未詳「遺言条々」勧修寺家文書)に「一、参川守資経(中略)伊勢国和田庄九条殿御領 三代相伝領也」とあり、預所職は為隆―光房―経房と三代にわたって相伝されており、経房は孫の資経に譲った。また元久元年(一二〇四)四月二三日付九条兼実置文(九条家文書)に「伊勢国和田庄」とあり、兼実は皇嘉門院から相伝した和田庄を含む堂舎家地庄園を宜秋門院(兼実娘任子)に付属させ、女院の死後は孫の道家に譲るべきことを定めている。
和田庄
わだのしよう
和田川の南、
元応二年五月八日付和田庄中分一方帳写(国立史料館蔵)は領家方の一方帳であるが、朝日郷・冬野郷・吉原郷・三葛郷の各郷が名別に記載され、末尾部分に「四ケ郷境事、守旧儀相互可致所務者也、此内冬野郷西境神宮領内原郷内船尾谷東河定、并三葛郷南境紀三井寺北畑滝北副小尾定」とあり、四郷の境が知られる。同帳では「大窪七郎次郎広氏知行分」と「重恒則里」を除き、それ以外を大きく田地と、畠田・在家畠・山野に二分し、そのうえで四郷に区分して名別に記す。
和田庄
わだのしよう
和田庄
わだのしよう
応永六年(一三九九)の興福寺造営段米田数帳(春日神社文書)の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報