和田庄(読み)みきたのしよう

日本歴史地名大系 「和田庄」の解説

和田庄
みきたのしよう

大鳥郡和田にきた(和名抄)に成立した庄園で、石津いしづ川の支流和田わだ川流域、現堺市美木多上みきたかみ檜尾ひのお菱木ひしきなどを含む一帯に比定される。古代郷は「にきた」とよばれたが(和名抄)、中世には「みきた」といったようで、文安二年(一四四五)頃の和泉国寺社東寺修理奉加人交名(教王護国寺文書)放光ほうこう寺の所在を「和田みきた」にあると記す。

平安末期に和田氏の祖先大中臣助正が河内国矢田部やたべ(現東住吉区)から和田郷に移り、同郷のかみ条・中条を中心に開発を進めたことに始まる。建保二年(一二一四)二月、助正の子助綱は父の開発した和田上条・中条の地を金剛こんごう(現河内長野市)に寄進した。その四至は東が「上神・荒田両郷堺天野上路」、西が「池田・荒田両郷并弥高峰」、南は「横峯」、北は「本宮藤社中家里四坪仟佰」であった(同年二月日「大中臣助綱山野田畠寄進状案」金剛寺文書、以下同文書については集合文書名を省く)。この四至によれば和田上条・中条の地は和田郷の南端にあたる和田谷周辺の荒田を開発して成立した土地のようである。開発領主の和田氏が下地進止権を留保しつつ国衙からの圧迫に対抗する一方、農民支配を強化するため上級領主権を金剛寺に寄進したのであろう。この寄進を受けて貞応元年(一二二二)八月二六日に綸旨が出されて一二月七日に和田庄が立庄されたが(弘安三年四月日金剛寺衆徒初度訴状案)国司が交替していく間に金剛寺の庄園であることを国衙によって否定されたという(仁治元年七月日金剛寺三綱公文連署和田上条中条寄進申状案)。安貞二年(一二二八)一〇月には和泉国司藤原隆衡より金剛寺住侶による和田郷の押領を停止させるために宣旨を下されたいとの訴えが内覧にかけられている(「民経記」同月二四日条・二五日条)。和田庄を収公して国衙領への編入を図ろうとする国司と、あくまでも庄園としてこれを維持しようとする金剛寺側との間に激しい争奪が繰広げられていたことがうかがわれる。

その後助綱の子助盛はより強力な庇護を求めて、金剛寺より証文を取返し、奈良興福寺僧宗春と図り、当時の和泉国司平兼高の許可を得て貞永元年(一二三二)四月奈良春日社に寄進、さらに興福寺大乗だいじよう院へと伝領された。このため仁治元年(一二四〇)七月、金剛寺は大乗院へ和田上条・中条を寄進することによってその領主権を確保しようと図った。その際金剛寺は上条を大乗院が進止し、中条は上分米五石を納める代りに金剛寺の知行とする。


和田庄
わだのしよう

保延元年(一一三五)八月一一日、勧修寺光房は父為隆の時代に平忠盛から手継文書をもって伝領した和田庄を皇嘉門院(藤原忠通娘聖子)に寄進した。これは皇嘉門院を本所と仰いで国司の収公を免れ、「永以子々孫々為預所」ための措置であった。この後、本家・領家職は忠通の三男兼実に始まる九条家、預所職は勧修寺家が相伝領掌した(貞和四年正月二日「文殿勘状」園太暦同五年二月二五日条)

正治二年(一二〇〇)二月二八日付勧修寺経房処分状案(年未詳「遺言条々」勧修寺家文書)に「一、参川守資経(中略)伊勢国和田庄九条殿御領 三代相伝領也」とあり、預所職は為隆―光房―経房と三代にわたって相伝されており、経房は孫の資経に譲った。また元久元年(一二〇四)四月二三日付九条兼実置文(九条家文書)に「伊勢国和田庄」とあり、兼実は皇嘉門院から相伝した和田庄を含む堂舎家地庄園を宜秋門院(兼実娘任子)に付属させ、女院の死後は孫の道家に譲るべきことを定めている。


和田庄
わだのしよう

和田川の南、朝日あさひ冬野ふゆの吉原よしはら広原ひろはら三葛みかずらの地域が荘域にあたると考えられる。成立・伝領とも不明。詳細は不明であるが、鎌倉時代末頃当庄に関する訴訟が行われ、元応二年(一三二〇)下地中分の下知が下り、正応六年(一二九三)実検帳に基づき四郷の田畠が区分され、地頭代と領家方雑掌によって双方の一方帳が作成された。

元応二年五月八日付和田庄中分一方帳写(国立史料館蔵)は領家方の一方帳であるが、朝日郷・冬野郷・吉原郷・三葛郷の各郷が名別に記載され、末尾部分に「四ケ郷境事、守旧儀相互可致所務者也、此内冬野郷西境神宮領内原郷内船尾谷東河定、并三葛郷南境紀三井寺北畑滝北副小尾定」とあり、四郷の境が知られる。同帳では「大窪七郎次郎広氏知行分」と「重恒則里」を除き、それ以外を大きく田地と、畠田・在家畠・山野に二分し、そのうえで四郷に区分して名別に記す。


和田庄
わだのしよう

荘名は建久二年(一一九一)一〇月日付長講堂所領注文(島田文書)にみえる。

<資料は省略されています>

長講ちようこう堂領としての一年間の課役が知られる。文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳写には、新庄の一として「和田庄三十四丁」とある。その後の和田庄については「親元日記別録」政所賦銘引付文明一〇年(一四七八)一〇月二二日条に「若州和田庄五分一事、任源俊書記借書并年記渡状之旨、可預御成敗云々」とみえるのみで詳細は不明である。


和田庄
わだのしよう

応永六年(一三九九)の興福寺造営段米田数帳(春日神社文書)城上しきのかみ郡に「大乗院方 和田庄一町五段」とみえる。また、寛正四年(一四六三)の諸庄段銭成足帳(お茶の水図書館蔵大乗院文書)城上郡に「和田一町五反」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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