三橋村(読み)みつはしむら

日本歴史地名大系 「三橋村」の解説

三橋村
みつはしむら

[現在地名]塩川町金橋かなはし

下窪しもくぼ村の南東日橋につぱし川北岸に位置し、塩川組に属した。南東は金川かながわ村。明応九年(一五〇〇)一月一四日、蘆名盛高はうるし(現北塩原村)綱取つなとり城に籠った松本対馬を討つために当地を通って兵を進めており、「塔寺長帳」同年条裏書には「うるしへよせんとミはしへ御こへ候」とみえる。村の南には加納盛時(佐原義連の孫)の孫三橋太郎義通が築いたといわれる三橋館跡がある。「塔寺長帳」文亀二年(一五〇二)条裏書などによると、同年蘆名氏は三橋氏・勝氏らを会津より追放している。


三橋村
みつはしむら

[現在地名]糸貫町三橋

仏生寺ぶつしようじ村の北に位置し、糸貫川東岸沿いの平坦地に立地。長享三年(一四八九)二月五日の某注進状案(宝鏡寺文書)に本巣郡九村の一として「みつはし」とみえ、宝鏡ほうきよう大慈だいじ(現京都市上京区)の南御所が領していた。応仁・文明の乱までは南御所被官中沢氏が代官で、その下代官に石河氏がいて現地を支配していたが、乱後守護土岐氏被官の野間氏により押領されていた。


三橋村
みつはしむら

[現在地名]福井市乾徳けんとく花月かげつ一帯

福井城下の西北部を占め、慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高一六九三・四四石とある。幕末まで石高は変わらない。柴田勝家時代の北庄城下三橋町外に村部があったために村名となったものであろう。正保郷帳によると田方一千二一石余・畠方六七一石余。慶長六年、結城秀康の入封による北庄城拡張工事により、田畑の一部を埋めて下呉服しもごふく町組・むろ町組(一部)の町屋と足軽組屋敷が置かれた(→三橋町。慶長年間に開かれた町屋は地子を免ぜられたが、その周辺においおい建置された町は年貢を納める地方町として三橋みつはし地方に属した。


三橋村
みつはしむら

[現在地名]羽黒町三橋

松尾まつお村の北にあり、東辺を中川なかがわ堰が北流する。三ッ橋とも記した。用水は中川堰支堰の天高てんこう堰を利用し、明治八年(一八七五)の村々諸役人姓名帳(荒川区有文書)では当村鈴木藤右衛門が天高堰守となっている。元和八年(一六二二)庄内藩領となり、同年の酒井氏知行目録に村名がみえ、高三二石余。寛永元年庄内高辻帳では高一〇三石余。正保郷帳では田高六五石余・畑高三五石余。


三橋村
みつはしむら

[現在地名]豊川市三谷原みやはら

牧野まきの村の南に続き、ひめ街道より南の村。「三河国二葉松」に三橋村古城として、飯尾因幡入道、のち牧野助五郎の居住を伝える。三河国吉田領人馬役割帳(島原市本光寺蔵)に載る慶長九年(一六〇四)の検地高は二〇一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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