三浦謹之助(読み)みうらきんのすけ

精選版 日本国語大辞典 「三浦謹之助」の意味・読み・例文・類語

みうら‐きんのすけ【三浦謹之助】

医学者。福島出身。東京帝国大学教授、東京同愛記念病院院長。主として神経疾患研究東北地方の首下がり病や回虫卵の研究でも知られる。昭和二四年(一九四九文化勲章受章。元治元~昭和二五年(一八六四‐一九五〇

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「三浦謹之助」の意味・わかりやすい解説

三浦謹之助
みうらきんのすけ
(1864―1950)

内科学者。陸奥(むつ)国(福島県)生まれ。1888年(明治21)帝国大学医科大学を卒業し、同大学内科教師ベルツ助手となる。1889年ヨーロッパ遊学パリシャルコー師事して神経病学を学び、1892年帰国。母校の内科学講師に任ぜられ、1895年教授に就任、1924年(大正13)退職までその任にあった。1929年(昭和4)東京同愛記念病院院長。筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)などの神経疾患に関する研究を主として行ったが、東北地方の首下がり病、回虫卵に関する研究などの業績がある。それまで外国人教師によって指導されていた医学教育を日本人によるものに変えることに努力し、また日本神経学会日本内科学会設立に尽力した。帝国学士院会員、東京医学会会頭などを歴任、1949年(昭和24)文化勲章を受章した。

[大鳥蘭三郎]

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改訂新版 世界大百科事典 「三浦謹之助」の意味・わかりやすい解説

三浦謹之助 (みうらきんのすけ)
生没年:1864-1950(元治1-昭和25)

内科学者。日本近代内科学の成立に寄与し,ことに神経内科学を樹立したことで知られる。またフランス医学の日本への紹介者でもある。福島県生れ。東大卒。E.vonベルツの助手となったのち,欧米に留学,パリでJ.M.シャルコーにつき神経病学を学ぶ。1895年東大教授(当初第2講座,のち第1講座)となり,1924年までその地位にあって,青山胤通,入沢達吉とともに従前の外人教師による指導から独立して,日本人による医学教育・内科学の確立に努力した。神経病学のほか,新陳代謝病学,運動器官病学を研究し,首下がり病,ナナ条虫,カイチュウ卵,男子尿中の腟トリコモナス,サントニン駆虫機序などに関する業績がある。日本神経学会,日本内科学会を創立。25年には同愛記念病院長(東京)となった。帝国学士院会員,宮内省御用掛,東京医学会会頭を歴任した。49年文化勲章受章。最後まで臨床家を自任した。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「三浦謹之助」の意味・わかりやすい解説

三浦謹之助
みうらきんのすけ

[生]元治1(1864).福島
[没]1950.10.15. 東京
内科医。 1888年帝国大学医科大学卒業。ドイツ,フランスに留学,パリで有名な神経病学者 J.シャルコーの門に学ぶ。 94年母校の内科学助教授,95年教授。 1924年名誉教授。筋萎縮性側索硬化症など神経疾患の研究が多く,臨床神経学の開拓者として日本医学界に貢献した。帝国学士院会員,日本内科学会名誉会頭,東京同愛記念病院院長などをつとめ,49年文化勲章受章。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「三浦謹之助」の解説

三浦謹之助 みうら-きんのすけ

1864-1950 明治-昭和時代の内科学者。
元治(げんじ)元年3月21日生まれ。ヨーロッパに留学し,フランスでシャルコーに師事。明治28年母校帝国大学の教授,のち同愛記念病院長。わが国の神経学の草分けのひとりで,寄生虫学などにも貢献。日本内科学会,日本神経学会の創設にかかわった。昭和24年文化勲章。昭和25年10月11日死去。86歳。陸奥(むつ)伊達郡(福島県)出身。

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