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三浦謹之助 みうらきんのすけ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

三浦謹之助
みうらきんのすけ

[生]元治1(1864).福島
[没]1950.10.15. 東京
内科医。 1888年帝国大学医科大学卒業。ドイツ,フランスに留学,パリで有名な神経病学者 J.シャルコーの門に学ぶ。 94年母校の内科学助教授,95年教授。 1924年名誉教授。筋萎縮性側索硬化症など神経疾患の研究が多く,臨床神経学の開拓者として日本医学界に貢献した。帝国学士院会員,日本内科学会名誉会頭,東京同愛記念病院院長などをつとめ,49年文化勲章受章。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

三浦謹之助 みうら-きんのすけ

1864-1950 明治-昭和時代の内科学者。
元治(げんじ)元年3月21日生まれ。ヨーロッパに留学し,フランスでシャルコーに師事。明治28年母校帝国大学の教授,のち同愛記念病院長。わが国の神経学の草分けのひとりで,寄生虫学などにも貢献。日本内科学会,日本神経学会の創設にかかわった。昭和24年文化勲章。昭和25年10月11日死去。86歳。陸奥(むつ)伊達郡(福島県)出身。

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世界大百科事典 第2版の解説

みうらきんのすけ【三浦謹之助】

1864‐1950(元治1‐昭和25)
内科学者。日本近代内科学の成立に寄与し,ことに神経内科学を樹立したことで知られる。またフランス医学の日本への紹介者でもある。福島県生れ。東大卒。E.vonベルツの助手となったのち,欧米に留学,パリでJ.M.シャルコーにつき神経病学を学ぶ。1895年東大教授(当初第2講座,のち第1講座)となり,1924年までその地位にあって,青山胤通入沢達吉とともに従前の外人教師による指導から独立して,日本人による医学教育・内科学の確立に努力した。

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大辞林 第三版の解説

みうらきんのすけ【三浦謹之助】

1864~1950) 医学者。福島県生まれ。東大教授。東北地方に流行する首下がり病を調査研究。また、回虫卵に受精卵と未受精卵の別のあることを確認。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

三浦謹之助
みうらきんのすけ
(1864―1950)

内科学者。陸奥(むつ)国(福島県)生まれ。1888年(明治21)帝国大学医科大学を卒業し、同大学内科教師ベルツの助手となる。1889年ヨーロッパに遊学、パリでシャルコーに師事して神経病学を学び、1892年帰国。母校の内科学講師に任ぜられ、1895年教授に就任、1924年(大正13)退職までその任にあった。1929年(昭和4)東京同愛記念病院院長。筋萎縮性側索硬化症(きんいしゅくせいそくさくこうかしょう)などの神経疾患に関する研究を主として行ったが、東北地方の首下がり病、回虫卵に関する研究などの業績がある。それまで外国人教師によって指導されていた医学教育を日本人によるものに変えることに努力し、また日本神経学会、日本内科学会の設立に尽力した。帝国学士院会員、東京医学会会頭などを歴任、1949年(昭和24)文化勲章を受章した。[大鳥蘭三郎]

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