日本大百科全書(ニッポニカ) 「三長記」の意味・わかりやすい解説
三長記
さんちょうき
藤原長兼(ながかね)(生没年不詳)の日記。長兼は三条を号したのでこの名がある。また『長兼卿記(ながかねきょうき)』あるいは、権中納言(ごんちゅうなごん)となったところから『三中記(さんちゅうき)』『三黄記(さんこうき)』ともよばれ、清浄潔白な性行から『清白記(せいはくき)』『如天記(じょてんき)』ともいう。長兼は入道中納言長方を父とし、入道少納言通憲(みちのり)(信西(しんぜい))の女(むすめ)を母とする。参議となったのは1206年(建永1)。1211年(建暦1)10月権中納言を辞し、14年(建保2)2月に出家して法名を覚阿(かくあ)といった。日記の原本は伝わらず、写本の種類によって冊数も一致しないが、現在残っているのは、1191年(建久2)正月から1211年3月までの断続的な記事である。長兼は九条兼実(かねざね)・良経(よしつね)父子に家司(けいし)として仕え信任厚く、ために記事も政治の枢要に触れ貴重な史料となっている。ことに法然(ほうねん)(源空)の浄土宗の台頭と、それに続く法難の記事は重要である。『増補史料大成』によってかなりな部分が刊行され、また『大日本史料』第4編などによって知られる記事も多いが、写本のみで未刊の部分もある。長兼は文才に恵まれ、故実に通じ『除目撰定抄(じもくせんていしょう)』も著している。なお、長兼が東宮大進であった時期の、東宮にかかわる記事のみを抄録した『東進記』もある。
[田中博美]