上代村
かみだいむら
[現在地名]溝口町福岡
日野郡・会見郡境の鎌倉山(七三〇・九メートル)の東方、北東流する野上川の最上流部に位置する。北東は下代村、南の矢倉峠を越えて黒坂村(現日野町)に至る。地内の五万騎・四万騎には多くの墓石群・五輪塔があり、伝承では戦国期の鎌倉山城(現西伯町)における攻防戦の墓碑とされる。藩政期の拝領高は一八五石余、本免は五ツ七分。福田氏の給地であった(給人所付帳)。延享三年(一七四六)の巡見使案内手帳(宇田家文書)によると高二〇二石余、家数四六・人数一八九、牛二〇、古寺跡として光徳庵堂(光徳寺堂ともみえる)が記される。
上代村
かじろむら
[現在地名]東庄町神田など
中世の上代郷を継承する村名で、江戸時代には数ヵ村に分郷する。天正二〇年(一五九二)正月二五日の松平家忠知行書立に「上代之郷」とみえ、高一千五四一石余が家忠領となっている。「家忠日記」によれば、同年二月一九日武蔵忍城(現埼玉県行田市)を船で出発し、同月二二日上代に到着している。同年三月九日条によれば、知行分の残り五千石は上総で四千石余と上代近所で八〇〇石余としている。
上代村
かみだいむら
[現在地名]熊本市城山上代町
坪井川左岸に位置し、対岸は高橋村・高橋町、南は白川、西は大友村に接する。天正年間(一五七三―九二)と思われる山上衆知行目録写(内田文書)に「飽田郡かミたひ之内」として「一所壱町 田尻伊豆守」と、「飽田郡之内かミたひ之内」として「一所八段 田尻源左衛門尉」が記される。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田方七八町八反・畠方四八町七反余、分米一千三二三石八斗余とある。
上代村
うえだいむら
[現在地名]和泉市上代町
現和泉市の北東端、和田川下流西方、大野池の北方に位置する。当地には魏の景初三年(二三九)銘の画文帯四神四獣鏡が出土した黄金塚古墳、法起寺式の伽藍配置をもつものであったと推定されている信太寺跡がある。慶長九年(一六〇四)の信太郷上田井村御指出帳(東京大学史料編纂所蔵)によると、高六五石余、うち畑は一〇石余、名請人六名。同一〇年の和泉国絵図に村名がみえるが、村高は不明。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では高三四一石余、幕府領。元禄初年の「泉州志補遺」でも同高、ただし一七石余新開の注がある。柳沢吉保領。元禄郷帳でも柳沢領(武蔵川越藩)。
上代村
かみだいむら
高岡村の東、高崎川右岸に位置。大蛇村と馬橋村(現酒々井町)を結ぶ通称五良道が通る。平安時代末期の下総国印東荘郷司村司交名(醍醐寺本「醍醐雑事記」七・八裏文書)に「□代苅田貞綱」とあり、「□代」を当地に比定する説もあるが不詳。「寛文朱印留」に佐倉藩領として村名がみえ、以後幕末まで同藩領。元禄郷帳では高八五石余。
上代村
うわだいむら
[現在地名]門前町上代
剣地村の北東、仁岸川北岸の傾斜地に立地。正保郷帳では高七六石余、田方三町一反余・畑方一町九反余。承応三年(一六五四)の村御印では同高、免五ツ二歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高八三石、免五ツ四歩、小物成は山役二九匁(三箇国高物成帳)。享保二〇年(一七三五)の家数一三(「奥両郡高免付込帳」中谷文書)。
上代村
うえのだいむら
[現在地名]宇目町小野市 越野
古屋園村の南に位置。正保郷帳には上野代村とみえ、田高三三石余・畑高一三石余、宇目郷に属した。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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