上名村(読み)かんみようむら

日本歴史地名大系 「上名村」の解説

上名村
かんみようむら

[現在地名]野田町上名

出水台地の西端、紫尾しび山の北西部に位置し、現野田町の南半を占める。村の東部を野田川や支流の御手洗みたらい川が北流し、北は下名しもみよう村、西・南は阿久根郷鶴川内つるがわち(現阿久根市)、東は高尾野たかおの郷下高尾野(現高尾野町)、南東の一部で薩摩郡とう藤川ふじかわ(現東郷町)と接していた。「かみみょう」ともいう。出水郡地誌備考由緒調(出水郷土誌)は枝村として牧牛・越地こえち鶴田つるだ・小豆野・まつすみ籠土山こもつちやま柿野かきの久木野くきの青木あおき野角のずみ別府べつぷの一一ヵ村をあげる。野田郷の衆中の大半は当村の熊陣馬場くまじんばばと下名村の本町もとまち八幡はちまんに居住し、地頭仮屋は熊陣馬場に置かれたが、麓は形成されなかった。庄屋所は地内仮屋原かりやばらに置かれた。地名は下名とともに中世の山門やまと院野田名に由来すると思われ、山門院郡司平種国が築いたと伝える亀井山かめいやま城跡が熊陣馬場の西側にある。前出の青木(青木原)・野角・別府のほか、樋渡ひわたし平田ひらた井具居田いぐいだなどの小字は中世の諸史料に山門院(西方)のうちの地名として散見する。

弘長二年(一二六二)三月九日、山門院郡司平秀忠は同院のうち相伝の地である「へふ」の田畠などを三女虎王に譲っている(「平秀忠譲状案」旧記雑録)


上名村
かんみようむら

[現在地名]鹿屋市上祓川町かみはらいがわちよう祓川町はらいがわちよう下祓川町しもはらいがわちよう西祓川町にしはらいがわちよう東原町ひがしばるちよう旭原町あさひばるちよう打馬うつま二丁目

肝属きもつき川上流部(鹿屋川)に位置し、北は高隈たかくま下高隈しもたかくま村、南は中名なかみよう村。西は高隈山地、東は笠野原かさのはら。鹿屋郷のうち。中世は鹿屋院のうちで、応永三五年(一四二八)一二月六日の鹿屋院上村相分帳(旧記雑録)などにみえる鹿屋院かみ村にあたる。寛永四年(一六二七)知行目録(末川文書)によれば、鹿屋のうち上之村の高九八三石余など都合一千石が垂水島津家の島津信久(久信)に隠居分として与えられている。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では大窪村とみえ、高一千一七五石余。「三州御治世要覧」には上名村とみえ、延享(一七四四―四八)頃の高二千七五石余。旧高旧領取調帳では高二千一二五石余。文政年間(一八一八―三〇)の鹿屋名勝志再撰帳(鹿屋郷土誌)によれば、享保一一年(一七二六)から垂水島津家の持切在となった。


上名村
かんみようむら

[現在地名]吾平町上名

姶良あいらふもと村の南にあり、南東は麓村の飛地東岳ひがしだけ(神野地区)、南西は下名しもんみよう村の飛地西岳にしだけ(横尾地区)。東部から北西へと流れる姶良川は、北流してきた苫野とまの(西岳川)を合せて村の中央部を北へ流れる。古くはまち村と称し(姶良名勝志)、姶良郷の麓に隣接して野町があった。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳では姶良町あいらまち村とみえ、高六七七石余。延宝年間(一六七三―八一)に上名村と改められたという(姶良名勝志)。「三州御治世要覧」には上之名村とみえる。明和八年(一七七一)には検地・門割が実施されている(「上名村小脇門検地名寄帳」本車田家文書)。文政七年(一八二四)の高二千六七六石余、人数一千一三三・竈数二四三、ほかに野町の人数一四〇・竈数三一、寺門前の人数五三・竈数七(姶良名勝志)。幕末の門数八七(吾平町誌)


上名村
かみみようむら

[現在地名]山城町上名

西宇にしゆう村の南、吉野川の大歩危おおぼけ峡左岸および東流する支流藤川谷ふじかわだに川両岸を占める。東対岸は祖谷いや山、南は下名村、西は土佐国長岡ながおか奥大田おくおおた村・立川たぢかわ(現高知県大豊町)。集落は急傾斜の高地に散在。土佐国境まで本道筋で一里、立川口への道筋で二〇町ほど、奥大田の道筋で二四、五町ほど、伊予国境まで二里、大西池田おおにしいけだ(現池田町)より当地まで八里半(明暦三年「三名道筋覚」御大典記念民政資料)。もとは山城谷のうち。のち独立し、西宇村・下名村と合せ三名さんみようと称された。慶長期(一五九六―一六一五)のものと推定される国絵図に上名とみえる。


上名村
かんみようむら

[現在地名]串木野市上名・冠岳かんむりだけ

串木野郷の東部に位置し、東は市比野いちひの(現樋脇町)、北は百次ももつぎ(現川内市)、南は川上かわかみ(現市来町)に接し、串木野郷では海に面しない唯一の村である。村の中央を五反田ごたんだ川が西流する。中世は薩摩郡時吉ときよし名に含まれ、貞治七年(一三六八)五月二八日の若松忠貞田地売券(島津家文書)のなかに、串木野村内として日置田へきた田尻田たじりた的場まとばがみえ、現在も当地の小字名として残る。近世には地頭仮屋が置かれた(三国名勝図会)。江戸中期頃までは下名しもんみよう村と合せて串木野村とよばれていた。


上名村
かみのみようむら

[現在地名]溝口町福居ふくい

北東流する藤屋ふじや川中流右岸の小平地に位置し、対岸は須鎌すがま村。村名は中世の名田に由来するか。享保元年(一七一六)郷村高辻帳は「カミナ」と訓ずる。拝領高は五八石余、本免は四ツ四分。米子荒尾氏の給地であった(給人所付帳)。文政一三年(一八三〇)の高七四石余、物成一六石余、米子御蔵へ納入すべき三歩一米は不明(在方諸事控)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高七六石余、竈数一二。「伯耆志」では林一二町四反余、家数一二・人数五二。藪役二匁二分が課されていた(日野郡史)


上名村
かみみようむら

[現在地名]姶良町上名

下名村の北に位置し、山田やまだ川が中央を南流する山に囲まれた谷間にあたる。地名の由来から山田村の分村によって成立する経緯は下名村と同じ。山田郷に所属。「三州御治世要覧」に村名がみえ、延享(一七四四―四八)頃の高一千七石余。旧高旧領取調帳では高一千二二二石余。開削年代不詳の上名用水は、慶応三年(一八六七)の豪雨で崩壊。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android