上寺村(読み)うえでらむら

日本歴史地名大系 「上寺村」の解説

上寺村
うえでらむら

[現在地名]山崎町上寺

伊沢いさわ川の下流右岸にあり、篠の丸ささのまる山東麓に位置する。北は横須よこす村。村名の由来は山崎城下てら町北隣にあることによるとも、城下西方の春安はるやす中寺なかでら(中世からの寺院があったという地)に対比したものともいう。領主の変遷は山崎村と同じ。慶長国絵図に村名がみえる。正保郷帳では田方一五九石余・畠方四二石余。旧高旧領取調帳では高二〇一石余、うち一〇〇石は山崎城下の青蓮しようれん寺領。下村氏手控帳を寛保三年(一七四三)に写した西村氏手控帳(西村家文書)によると、寛文―延宝(一六六一―八一)には四ツ成高一二五石余、田三町三反余・畑三町三反余、小物成銀九匁余(茶役八匁余・楮役一匁余)・桑役(真綿)五〇匁余、家数一〇・人数六二、牛五。


上寺村
かみでらむら

[現在地名]朝倉町上寺

筑後川を隔てて長淵ながふち村と田中たなか村の南にあり、南西は筑後国竹野たけの行徳ぎようとく村など(現田主丸町)、東は同郡今泉いまいずみ(現吉井町)など。同川の洪水によって河道が北側に変わり、筑前国で一村のみ同川南側になった(続風土記)。古くは神寺と記したが、慶長年間(一五九六―一六一五)に上寺と改めたという(朝倉紀聞)。「続風土記」は田尻たじり村を枝村とし、国松くにまつ村を当村の内とする。慶長石高帳に「田中ノ内」として上寺村とみえ、慶長七年(一六〇二)の検地高三一四石余。元禄五年(一六九二)には上寺村の高三一四石余・反別四三町三反余、家数四五・寺一・社一、人数二二四(田圃志)


上寺村
うえでらむら

[現在地名]邑久町北島きたしま

寺山(六〇メートル)丘陵およびその南の平地に位置。上寺山には古刹上寺山余慶よけい寺および正八幡宮があり、それらにかかわる民家も山上にある。寛永備前国絵図に上寺山がみえる。正保郷帳には上寺山村とみえ、高二〇九石余。「備陽記」には「山之上也」とあり、田畑一〇町七反余、家数二七・人数九七。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高二八八石余で蔵入。反別は田一〇町一反余・畑五町四反余(うち寺領畑四町八反余)、家数一〇・人数四三、寺は天台宗余慶寺(寺中七院一坊)、堂六、社方家三、正八幡宮の社領八石、石橋一・土橋二、池一。


上寺村
うえでらむら

[現在地名]安曇川町田中たなか

佐賀さが村の南西に位置する。上の山に松蓋しようがい寺があったための村名という(輿地志略)。中世には田中郷のうち。寛永石高帳に村名がみえ、高二八九石余で膳所藩領。慶安高辻帳では田方二五五石余・畑方一五石余・永荒一九石余。中村家膳所藩明細帳によれば、家数二八・人数一三四。用水は上寺谷川の水を引いた。秣場は田中郷九ヵ村立会。明治七年(一八七四)佐賀村など九ヵ村と合併して田中村となる。天台真盛宗松蓋寺は天平三年(七三一)良弁の開基。初め奈良興福寺、のち延暦寺に属し、高島七ヵ寺の一つ。朽木文書にも「松蓋寺北谷坊」「松蓋寺連載坊」「松蓋寺式部卿」の名がみえる(文明一二年一二月日松蓋寺北谷坊快暹田地売券など)


上寺村
かみでらむら

[現在地名]草津市上寺町

片岡かたおか村の西に位置。近世初頭は西の下寺村に含まれたが、慶安年間(一六四八―五二)に分村したという。栗太くりた郡条里の四条一一里にあたり、集落は旧二〇ノ坪・二一ノ坪・二六ノ坪・二七ノ坪に収まる。元禄郷帳に村名がみえ高六一〇石余、山城淀藩領で以後幕末まで同じ。用水は南大水みなみおおずい川に依存。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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