守山宿
もりやましゆく
中山道六七宿の六七番目。前宿の武佐(現近江八幡市)からは三里半で、中山道は南西の草津宿で東海道と交わる。同宿までの道程は一里半。
〔中世〕
守山は持統天皇勅願寺と伝える益須寺や延暦四年(七八五)の創建と伝える天台宗守山寺東門院などを中心として発達し、北面に野洲川の流れを背負う古代以来の宿駅ともいわれる。中世には東海道の宿駅で、「実暁記」には「自京鎌倉マテノ宿次第」として野路(現草津市)より二里、鏡(現蒲生郡竜王町)まで二里とある。治承四年(一一八〇)七月には佐々木高綱が源頼朝の謀反を聞いて鎌倉に向かう途上、守山に宿泊し(「参考本源平盛衰記」巻一九)、承久三年(一二二一)六月一二日、北条泰時が野路に到着したとき、幸嶋(下河辺)四郎行時が「杜山」から野路へ駆けつけ宴に加わっている(吾妻鏡)。弘安二年(一二七九)一〇月、京都を発った阿仏尼は旅の第一夜を時雨の降る守山で泊まり、「いとゞなお袖ぬらせとや宿りけんまなくしぐれのもる山にしも」と詠み、「けふは十六日の夜なりけり」と記している(十六夜日記)。
守山はまた京都―鎌倉間を結ぶ東海道のほかに、甲賀・栗太・野洲各郡の物資を集積し、湖上を経て大津・京都に至る交通の起点でもあった。当地を起点とする中世の街道比叡山街道が文保元年(一三一七)九月一九日成立とする守山古跡図(東門院旧蔵)にみえている。同図によると、その道筋は守山寺から比叡山東門を経て金森の金大明神・橘寺の前を経て琵琶湖に出る道筋をたどる。湖岸の木浜・杉江、山田・志那(現草津市)などの湊から湖対岸の比叡山に至ったのであろう。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
Sponserd by 