日本歴史地名大系 「田中城跡」の解説
田中城跡
たなかじようあと
〔戦国時代〕
最初の築城者やその年代は明らかでないが、室町時代に一色左衛門尉信茂が築いたとする説がある(「駿国雑志」など)。永禄一三年(一五七〇)二月二二日の武田信玄書状(高山吉重氏所蔵文書)に「徳一色落居」とみえ、同年一月末、今川家の家臣長谷川正長が武田信玄に攻められて開城する。当時は徳一色城とよばれており、武田方に落ちてから田中城と改めたという(甲陽軍鑑)。徳一色城は三の曲輪まで備えた城で、信玄がもともと堅固な城ゆえ改修不要と判断している点や(前掲武田信玄書状)、同城の立地条件や曲輪の規模から考えて、信玄による大規模な改修は認められず、当初から本丸を中心とした同心円状の縄張りであったと思われる。信玄は本城(本丸)に三枝虎吉、二の曲輪と三の曲輪には今川旧臣の朝比奈信置と同輝勝を配置し、駿河・遠江の国境の城として遠江進出の拠点とした。
しかし天正三年(一五七五)に武田勝頼が長篠の戦に敗れると、一転して駿河防衛のための城となり、同年一二月二七日、勝頼は城番の三浦員久や小山田昌盛らに「其城用心普請」を命じて守りを固めさせた(「武田家朱印状」友野文書)。一方、武田氏と抗争中の徳川家康が駿府に攻め入るには東海道の
田中城跡
たなかじようあと
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たなかじようあと
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たなかじようあと
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報