田中城跡(読み)たなかじようあと

日本歴史地名大系 「田中城跡」の解説

田中城跡
たなかじようあと

[現在地名]藤枝市田中一―二丁目

高草たかくさ山と大井川に挟まれた地域は駿河府中から高草山を隔てて西側にあたるため、中世以来山西やまにしとよばれていた。この山西地域に戦国期から幕末まで存続した唯一の平城跡。城・亀甲きつこう城ともよばれる。山西地域は大井川を境として駿河国が遠江国と接する要衝で、府中の西の守りを担う場所であった。近世の田中城は東海道藤枝宿の南東に隣接し、低湿地に囲まれた微高地を利用して築かれていた。戦国期には初め徳一色とくのいつしき城とよばれた。戦国期は田中という呼称は田中城を意味し、近世になると益津ましづこおり村を分断するように位置した田中城や田中藩、あるいは田中藩領を意味するものとして用いられた。

〔戦国時代〕

最初の築城者やその年代は明らかでないが、室町時代に一色左衛門尉信茂が築いたとする説がある(「駿国雑志」など)。永禄一三年(一五七〇)二月二二日の武田信玄書状(高山吉重氏所蔵文書)に「徳一色落居」とみえ、同年一月末、今川家の家臣長谷川正長が武田信玄に攻められて開城する。当時は徳一色城とよばれており、武田方に落ちてから田中城と改めたという(甲陽軍鑑)。徳一色城は三の曲輪まで備えた城で、信玄がもともと堅固な城ゆえ改修不要と判断している点や(前掲武田信玄書状)、同城の立地条件や曲輪の規模から考えて、信玄による大規模な改修は認められず、当初から本丸を中心とした同心円状の縄張りであったと思われる。信玄は本城(本丸)三枝虎吉、二の曲輪と三の曲輪には今川旧臣の朝比奈信置と同輝勝を配置し、駿河・遠江の国境の城として遠江進出の拠点とした。

しかし天正三年(一五七五)に武田勝頼が長篠の戦に敗れると、一転して駿河防衛のための城となり、同年一二月二七日、勝頼は城番の三浦員久や小山田昌盛らに「其城用心普請」を命じて守りを固めさせた(「武田家朱印状」友野文書)。一方、武田氏と抗争中の徳川家康が駿府に攻め入るには東海道の宇津谷うつのや峠越か、海岸線を進む日本坂にほんざか(現焼津市)の二つのルートがあったが、いずれも田中城を押えねばならなかった。このため同六年以降、家康による田中城を中心とした駿河攻めが活発化し、同年三月九日徳川方は外曲輪を破ったが、攻め落すことはできなかった(家忠日記)。このあと勝頼は当城に在城していたと思われる穴山信君に諸城における昼夜の用心、破損部分の普請など油断のないよう命じている(同月二四日「武田勝頼書状」孕石文書)


田中城跡
たなかじようあと

[現在地名]鹿島町鹿島 舘ノ内

JR常磐線鹿島駅の東約一キロの所に、東西三〇〇メートル・南北一〇〇メートルほどの田園集落がある。たてうちといわれ、この一帯を城跡とする。土塁や内堀の一部を残し、妙見神社の祠があるが、周辺は田地となり城館の面影はまったくない。建武年間(一三三四―三八)陸奥守北畠顕家が小高おだか(現小高町)を攻め落した時、顕家配下の桑折五郎元家が江垂の中館えたりのなかだて城に住み、真野五郎と称した。のち相馬氏に従って田中城に移り、桑折氏代々の居城とした。


田中城跡
たなかじようあと

[現在地名]北波多村大字田中

「松浦古来略伝記」に「嘉暦二丁卯年葛原親王十八世の苗裔波多伊勢守橘好政島村城に入部」と記す。中世、岸岳きしだけ城の脇城として造られ、戦国末期、波多氏の家臣松尾主水正真行の三男松尾右京之助が居城したが、のち波多氏が常時の居城としたという。

城内一二ヘクタール、本丸一ヘクタール、当時徳須恵とくすえ川は、この城の北西を流れ、自然に堀の役をなし、大門口おおもんぐちにはたまはしが架かっていた。「松浦拾風土記」に「玉ケ橋田中村に有り、往古大川薗より此川筋橋の下を流る。


田中城跡
たなかじようあと

[現在地名]三加和町和仁 古城

田中の集落の南、標高一〇〇メートル・比高六〇メートルの丘陵にある。別に和仁城・舞鶴まいづる城ともいう。和仁氏の居城。「古城考」や「国誌」には、天正一五年(一五八七)の国衆一揆に際し和仁親実・同親永・辺春親行などが籠城、佐々成政豊臣秀吉の命を受けた立花氏や鍋島氏らの攻撃を受け落城した様子を伝える。同年一二月七日の安国寺恵瓊書状(柚留木文書)に「当城之事一昨日落去候、(中略)自明日普請可申付候、左候而番衆等之事、近々談合可申候」とあって、落城後すぐに当城の普請が命ぜられ番衆を置くことが議されている。


田中城跡
たなかじようあと

[現在地名]箕輪町大字三日町 田中

三日町みつかまち村の西方、天竜川の西岸の沖積地にあり、現在は本丸の一部と思われる土塁を残すのみ。天竜川とその沿岸の沼地を利用した平城で、伊那地方では珍しい地取りの城である。

天文一四年(一五四五)武田信玄のために落城した福与城主藤沢頼親は三好長慶のもとにあったが、その没後京都から箕輪に帰り、村の西方に田中城を築いた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「田中城跡」の解説

たなかじょうあと【田中城跡】


熊本県玉名郡和水(なごみ)町和仁(わに)にある城跡。肥後から筑紫を支配した肥後国衆(くにしゅう)の一人、和仁氏の居城跡。1587年(天正15)、豊臣秀吉の九州平定後、肥後領主に任命された佐々成政(さっさなりまさ)の強引な検地に対し、肥後北部の国衆が一揆(肥後国衆一揆)を起こし、和仁氏や辺春(へばる)氏などが田中城に立てこもり、一揆最後の拠点となったが、秀吉の援軍によって鎮圧され落城。城跡の規模は総面積約8万m2、約1700m2の主郭からは、14棟の掘立柱建物跡、主郭をめぐる空堀跡、物見櫓跡、柵列跡、井戸跡、城門跡などが検出された。出土品としては多数の青磁、白磁、染め付けなどの陶磁器類、すり鉢・火舎・土師器(はじき)類などの生活用具や鐙の小札・兜・刀子などの武具、鉄砲玉、炭化米などがあり、時期的には16世紀後半に集中。戦国期の歴史を語るうえで非常に重要な城跡であり、当時の様子をよく残した遺跡であることから、2002年(平成14)に国の史跡に指定された。現在、本丸跡には和仁3兄弟の石像が建ち、公園として整備されている。九州自動車道菊水ICから車で約20分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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