上山城跡(読み)かみのやまじようあと

日本歴史地名大系 「上山城跡」の解説

上山城跡
かみのやまじようあと

[現在地名]上山市鶴脛町

上山に城が築かれたのは、斯波兼頼の曾孫で天童頼直の子満長の時といわれる。その城は現市街地西にそびえる虚空蔵こくぞう(三五四メートル)山頂に築かれ、高楯たかだて城とよばれ、子孫は上山氏と通称したという。虚空蔵山はかめおか山ともいい、盆地を一望に見渡せる要害の地である。南に接する置賜おきたま郡の長井氏、次いで伊達氏に対する最上氏最前線の城砦であった。最上・伊達両氏の対立抗争により、永正一一年(一五一四)伊達稙宗により攻略され、小簗川親朝が入ったが、和議成立により翌一二年上山氏に返還。同一七年稙宗により再度攻略された。享禄二年(一五二九)上山義忠は高楯城を奪還し、天文四年(一五三五)天神森てんじんもりに上山城(月岡城)を築いて移ったと伝える。高楯城跡は残っていない。上山城はまえ川左岸の標高一九八メートル(比高二〇メートル)の丘陵上にある輪郭式の平山城。初め西方に大手門があり、丘陵直下を流れる前川とおお沼・うし沼を堀とした。城郭の規模は東西一七八間・南北二八二間と伝える(上山見聞随筆)。上山氏は天正八年(一五八〇)満兼の時に滅亡し、最上義光家臣里見氏が城主となる。慶長年間(一五九六―一六一五)長谷堂はせどう(現山形市)城主坂光秀が城主を兼ね、最上義光の五男光広(義直とも)が養子となって配された。元和八年(一六二二)松平重忠が四万石で入部。寛永三年(一六二六)蒲生氏郷の孫忠知が同じ四万石で入部した。伊達氏・上杉氏をにらんだ会津・上山・山形の連携を考えたものであろう。忠知は城の大手を東に開いたと伝える(「上山古事録」菅沼家文書集)

寛永五年土岐頼行は入部とともに上山城の整備に着手、防備の万全を期するため、石崎いしざき台地の西光さいこう寺を南西方に移し、跡地に松山まつやま別館と牛頭天王社(現石崎神社)を建て、東方愛宕あたご台地の観音寺を下の大湯近くに移した。


上山城跡
うえやまじようあと

[現在地名]鹿児島市城山

しろ山の山上に築かれた山城跡で、上之山うえのやま城とも称された。当初は上山氏の居城であったが、戦国時代後期には島津氏が使用し、慶長六年(一六〇一)からの鹿児島城築城ではその一部に組込まれて、同城の重要な防衛拠点とされた。「三国名勝図会」によれば、一四世紀に上山氏が拠ったという。文保元年(一三一七)七月晦日の薩摩国御家人交名注文(旧記雑録)に「上山領主」とみえる。暦応四年(一三四一)当城を島津貞久が攻撃したという(三国名勝図会)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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