日本歴史地名大系 「上方往来」の解説
上方往来
かみがたおうらい
近世の主要な陰陽連絡路の一つ。伯耆・美作方面からは出雲街道ともいう。松江城下から伯耆国までは山陰道と重なり、同国米子で分れて
近世に入ると、松江藩主・広瀬藩主がこの街道を参勤交代路として用いるようになった。そのため慶安年間(一六四八―五二)には松江藩主が四十曲峠付近の街道整備を行い(元禄二年「新庄村古事名物書上帳」新庄村史など)、寛文年間(一六六一―七三)には二部・根雨・板井原の本陣を勤める有力者たちが伯耆国内の街道整備を行っている(鳥取県郷土史)。このころから伯耆・美作国内でもしだいに出雲街道の呼称が用いられたようだが、美作では雲伯往来の呼称が一般的であったらしい。天保元年(一八三〇)に松江藩士小川光真が写した「安永大成道中記提要」は、松江藩主参勤交代の際の路程記である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報