上方往来(読み)かみがたおうらい

日本歴史地名大系 「上方往来」の解説

上方往来
かみがたおうらい

近世の主要な陰陽連絡路の一つ。伯耆美作方面からは出雲街道ともいう。松江城下から伯耆国までは山陰道と重なり、同国米子で分れて日野ひの郡の二部にぶ(現鳥取県溝口町)根雨ねう板井原いたいばら(現同県日野町)を南進し、伯耆・美作境の四十曲しじゆうまがり(現日野町と岡山県新庄村の境)を越え、美作国新庄しんじよう(現新庄村)津山つやま(現同県津山市)を経て播磨国姫路ひめじ(現兵庫県姫路市)に至り、畿内へ通じる。古来出雲東部・伯耆西部から京都・大坂方面に向かう最も便利な道であった。古代から中央と出雲・隠岐を結ぶ最短路線として重要視されたと考えられ、中世には因幡・丹波経由の山陰道に完全にとって代わっていた。承久三年(一二二一)鳥羽上皇が、元弘二年(一三三二)には後醍醐天皇が鎌倉幕府によって隠岐配流となるが、いずれの場合も美作から四十曲峠を越えて伯耆に入ったとみられ(「太平記」「増鏡」など)、この道が使用されたのであろう。

近世に入ると、松江藩主・広瀬藩主がこの街道を参勤交代路として用いるようになった。そのため慶安年間(一六四八―五二)には松江藩主が四十曲峠付近の街道整備を行い(元禄二年「新庄村古事名物書上帳」新庄村史など)、寛文年間(一六六一―七三)には二部・根雨・板井原の本陣を勤める有力者たちが伯耆国内の街道整備を行っている(鳥取県郷土史)。このころから伯耆・美作国内でもしだいに出雲街道の呼称が用いられたようだが、美作では雲伯往来の呼称が一般的であったらしい。天保元年(一八三〇)に松江藩士小川光真が写した「安永大成道中記提要」は、松江藩主参勤交代の際の路程記である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報