上杉清子(読み)うえすぎ・きよこ

朝日日本歴史人物事典 「上杉清子」の解説

上杉清子

没年康永1/興国3.12.23(1343.1.20)
生年:生年不詳
室町幕府初代将軍足利尊氏の母。「せいし」とも。上杉頼重の娘で,その所領丹波国上杉荘(京都府綾部市上杉)で育ち,のち関東の名族足利貞氏の妻となった。貞氏には,足利氏の家督の慣例として北条氏出身の女性,北条顕時の娘が正室となっていたが,清子は尊氏と弟・直義を生み,尊氏が家督を継いだ。清子の叔母に当たる上杉重房の娘も足利頼氏の子,家時すなわち貞氏の父を生んでいる。以来,上杉氏は関東の名門足利氏と親密な姻戚関係を結んで繁栄することとなった。清子の兄上杉道勲(憲房)は尊氏の有力な家人となっている。尊氏挙兵の時代には鎌倉にあって苦労したが,のちに将軍の母として重んじられた。和歌にすぐれ,『風雅集』にその歌が収められている。夢窓疎石の後輩に当たる古先印元にも帰依しており,教養が豊かだった。紀伊国粉河寺観音に祈願して尊氏を生んだため,建武3/延元1(1336)年10月,粉河寺に戸帳を寄進したという。丹波国安国寺にも所領を寄進している。清子の喪に当たって,北朝では文殿庭中が停止された。贈従二位。清子の法号ははじめ等持院であったが,尊氏の死後,尊氏にこの号が贈られたため,のち果証院と改められた。

(西尾和美)

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改訂新版 世界大百科事典 「上杉清子」の意味・わかりやすい解説

上杉清子 (うえすぎきよこ)
生没年:?-1342(興国3・康永1)

南北朝時代の女性。上杉頼重の女。足利貞氏の室となり,尊氏,直義を生む。尊氏の開幕後,将軍の母として重んじられ,従三位となり,錦小路殿と呼ばれる。《風雅集》にその和歌がある。《粉河寺続験記》によれば,紀伊粉河寺観音の霊験で尊氏が生まれ,ために1336年(延元1・建武3)尊氏を源頼朝に擬して将来を祈願している。法号等持院のち果証院殿。贈従二位。
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百科事典マイペディア 「上杉清子」の意味・わかりやすい解説

上杉清子【うえすぎきよこ】

上杉頼重(よりしげ)の女。法号は等持院のち果証院殿(かしょういんどの)。足利貞氏の室となり,足利尊氏足利直義(ただよし)を生む。尊氏の開幕後,将軍の母として重んじられて従三位に叙され,錦小路殿(にしきこうじどの)とよばれた。また将軍家の姻族として上杉氏も勢力を得た。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「上杉清子」の解説

上杉清子 うえすぎ-きよこ

?-1343* 鎌倉-南北朝時代,足利尊氏・直義(ただよし)の母。
上杉重房の孫。足利貞氏の妻。上杉憲房の妹。丹波何鹿(いかるが)郡(京都府)上杉荘でそだつ。「風雅和歌集」にその歌がある。康永元=興国3年12月23日死去。通称は錦小路殿,大方禅尼。

上杉清子 うえすぎ-せいし

うえすぎ-きよこ

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「上杉清子」の意味・わかりやすい解説

上杉清子
うえすぎきよこ

[生]?
[没]興国3=康永1(1342).12.23.
鎌倉時代末期の女性。上杉氏の祖重房の子頼重の娘。足利貞氏室,尊氏,直義の母。従三位。この縁組により,室町幕府草創期に,上杉氏は足利氏の姻族として勢力を伸ばした。

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世界大百科事典(旧版)内の上杉清子の言及

【上杉重房】より

…鎌倉中期の武将。生没年不詳。藤原清房の子。《上杉系図》によれば,1252年(建長4)将軍宗尊親王に随従して鎌倉へ下向。丹波国何鹿郡上杉荘(現,京都府綾部市上杉町)を賜り,上杉氏の祖となる。娘は足利頼氏の側室となって家時を,孫娘清子は足利貞氏(家時子)の室となって尊氏,直義を生み,有力御家人足利氏にその外戚として重用された。現在,鎌倉市明月院に上杉重房木造座像(重要文化財)がある。【青山 幹哉】…

※「上杉清子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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