上野尻村(読み)かみのじりむら

日本歴史地名大系 「上野尻村」の解説

上野尻村
かみのじりむら

[現在地名]香北町美良布びらふ

川上かわかみ谷を境に韮生野にろうの村の西に位置し、西は下野尻村物部ものべ川対岸に日御子ひのみこ村がある。式内社大川上美良布おおかわかみびらふ神社に接し、川上谷下流には縄文弥生の遺跡が残るなど、開発の古い地である。韮生郷内最大の河岸平野の中央に位置するが、用水不足のため一部分しか水田化されず、江戸時代初期の開発によって付近の中心集落となる土台が作られた。

天正一六年(一五八八)の韮生谷地検帳に「是より野尻村」とあり三七筆が一応区切られてはいるが、近世の上野尻村・下野尻村の区分とは対応しない。山田氏に仕えた旧土豪の「分」として付された地も、長宗我部氏家臣団の給地もほとんど一筆ごとに入交じる。ただ「平分」とある一筆が一町八反とまとまり、うち一町は希少価値の田(中田)であることは注目される。平分は朴木ほおのき村にもあり、平氏は当村を拠点とする名主的武士であったと思われるが、山田氏と運命をともにしたらしく、その支配地は分割されずにそのまま有瀬六郎兵衛の給地とされている。田は全体の三分の一弱にすぎず、しかも平分の一町以外はほとんど下々田とある。水がかりの悪さゆえであろう。

元禄地払帳によると本田高九八・〇三石はすべて東野権右衛門の知行地。新田高は四六三・八七石で、野中源兵衛(二四石余)・窪彦九郎(一〇石余)ら六名の領知を差引き、四〇一石余が貢物地。


上野尻村
かみのじりむら

[現在地名]西会津町上野尻

芹沼せりぬま村の北、阿賀川の左岸に位置し、北は下野尻村。本村の南に端村新田しんでんがある。河沼郡野沢組に属し、越後街道の宿駅として発達、制札場も設けられていた。当地で同街道から分岐し、阿賀川対岸の柴崎しばさき村へ渡り、同川右岸沿いに北方きたかた方面へと向かう脇道新郷しんごう通が通じていた。「新編会津風土記」、寛文五年(一六六五)の野沢組土地帳(西会津町史編さん室蔵)などによると、古く集落は南方八町四〇間の所にあったが、延宝二年(一六七四)街道沿いの現在地に移ったという。また帳地志方(伊藤家文書)によれば、野沢のざわ平が湖水であった時代、当地や下野尻村一帯は咽尻のどしりと唱えて船着所であったというから、上・下の野尻村は野沢町と同様、かつては南方山腰に集落を営んでいて、越後街道の宿駅として整備されるにつれて集落を移し、しだいに発展していったものと考えられる。天正一七年(一五八九)九月二二日伊達政宗は「任本領、上野尻年貢十三貫八百四十文、夫丸仁人」などを前田伯耆守に与えている(「伊達政宗安堵状写」伊達家文書)

文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では稲川いながわ郡のうちに上野尻とみえ、高八六六石余。


上野尻村
かみのじりむら

[現在地名]安中市安中一―二丁目・安中

下野尻村の西方、安中宿谷津やつ村の北から西にかけて広がる。北を九十九つくも川、南を碓氷うすい川が東流する。もと野後のじり郷に含まれた(→下野尻村。慶長一九年(一六一四)井伊直勝が安中に入封、上野尻村ほか二村の中山道沿いに町立てをし(「安中志」「安中記」ほか)、上野尻村分のうち一町六反余は安中宿伝馬てんま町の北側町並に割かれた(嘉永五年「宿明細帳」安中市教育委員会蔵)九十九川北側の小間こまは「安中志」には当村飛地小間村としてあげられ、周辺には古墳が多い。

「寛文朱印留」に村名がみえ、安中藩領。寛文郷帳では田方二三七石余・畑方二六七石余。中山道沿いの町並は谷津の町並の西に続き、天和元年(一六八一)板倉重形入封当時の町の長さ五町一〇間、家数は四五二であった(安中記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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