日本歴史地名大系 「上野尻村」の解説
上野尻村
かみのじりむら
天正一六年(一五八八)の韮生谷地検帳に「是より野尻村」とあり三七筆が一応区切られてはいるが、近世の上野尻村・下野尻村の区分とは対応しない。山田氏に仕えた旧土豪の「分」として付された地も、長宗我部氏家臣団の給地もほとんど一筆ごとに入交じる。ただ「平分」とある一筆が一町八反とまとまり、うち一町は希少価値の田(中田)であることは注目される。平分は
元禄地払帳によると本田高九八・〇三石はすべて東野権右衛門の知行地。新田高は四六三・八七石で、野中源兵衛(二四石余)・窪彦九郎(一〇石余)ら六名の領知を差引き、四〇一石余が貢物地。
上野尻村
かみのじりむら
文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では
上野尻村
かみのじりむら
- 群馬県:安中市
- 上野尻村
下野尻村の西方、安中宿と
「寛文朱印留」に村名がみえ、安中藩領。寛文郷帳では田方二三七石余・畑方二六七石余。中山道沿いの町並は谷津の町並の西に続き、天和元年(一六八一)板倉重形入封当時の町の長さ五町一〇間、家数は四五二であった(安中記)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報