下出村(読み)しもでむら

日本歴史地名大系 「下出村」の解説

下出村
しもでむら

[現在地名]平村下出

籠渡かごど村の北東庄川左岸斜面の凹地に位置する。南は切立って同川支流の小谷おたに川が流れ、西はなだらかに下って庄川に達する。竜女伝説のある池跡を取囲んで家が建つ。小谷川は地元ではオタンゴ川と通称される。本流東俣ひがしまた(小谷川)マルツンボリ山の東側の谷を北流、途中しま・籠渡両集落背後の谷から流れ出した西俣川を合せ、当地内で庄川に合流。「三州旧蹟志」に「下出村持山より流出る川を西俣川と申、高草嶺村・中江村・下出村持山より流出る川を東俣川と申、二川出合小谷川と申し下出村領にて庄川と落合申候」とある。三ヵ村入会山の東俣の奥は加賀藩の鷹巣山のため入山禁止のうえ、境界線からかなり離れて伐木が許されていた(鉢蝋家文書ほか)。西俣川の奥は川床が高く緩流となり平地をつくる。鹿屋敷しかやしきと称する一帯は焼畑耕作に適し、下出村・田向たむかい村・しま村から出作り農耕をしていた所で、天明年間(一七八一―八九)以来しばしば境界争いが繰返されていたが、明治六年(一八七三)に解決をみた(田向区有文書ほか)


下出村
しもいでむら

[現在地名]阪南町下出

黒田くろだ村の北東にあり、南はなか村。当村大願だいがん寺の永禄一二年(一五六九)二月一五日銘の板碑に「鳥取下手辻道場」とある。慶長一〇年(一六〇五)和泉国絵図に「下出村」とみえ、高七九四石余。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では九四〇石余。延享元年(一七四四)和泉国村高記では九〇九石余となっており、以降大幅な変化はない。領主変遷は天明七年(一七八七)幕府領となるまで尾崎おざき村に同じ。


下出村
しもいでむら

[現在地名]糸魚川市下出

上出かみいで村の南。下出集落の南の山地高谷根こんたんねの集落がある。正保国絵図に高六三石余とある。天和三年郷帳に高一四二石四斗余とある。正徳三年(一七一三)の下出村歎願書によると、高一四二石四斗余のうち一〇〇石余は本村より約三〇町余南の山奥高野谷根こうのたんね(高谷根)にあるとあり、また南風の吹下ろしの地で耕作・住家とも度々風害に遭い、小高いところに家数四〇軒余、人数二百三、四〇人がおり、なりわいが立ちにくいと訴えている(糸魚川市史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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