下新庄村(読み)しもしんじようむら

日本歴史地名大系 「下新庄村」の解説

下新庄村
しもしんじようむら

[現在地名]氷上町下新庄

南端を葛野かどの川が流れ、対岸柿芝かきしば村、北は安全あんぜん(五三七・四メートル)。永禄六年(一五六三)一二月以前と推定される年欠七月七日の細川氏綱感状(小森文書)に「去廿九日、於新庄・常楽表、合戦」とあり、戦功のあった小森与介に感状が出されている。この新庄は当地一帯にあたるが、葛野新郷との関係は不明。

慶長三年(一五九八)織田信包(柏原藩)領となる。正保郷帳に村名がみえ田高二六七石余・畠高七九石余、柴山あり、日損所あり。柏原藩領。慶安三年(一六五〇)幕府領、天和二年(一六八二)幕府と旗本柴田氏の相給、貞享元年(一六八四)旗本大久保氏と稲垣和泉守の相給となる(「寛政重修諸家譜」・鶴牧藩大概帳)


下新庄村
しもしんじようむら

[現在地名]東淀川区下新庄一―六丁目・淡路あわじ五丁目・西淡路にしあわじ五―六丁目・菅原すがはら五―七丁目

上新庄村の西にあり、上新庄村ともと一村であったので南部は両村地が錯綜する。分村は元禄一三年(一七〇〇)という(→上新庄村。戦国時代、当地には茨木いばらき(現茨木市)城主豊臣秀吉に従った中川清秀の出城新庄城があり、近世にもその跡地を示す「天守跡」「馬洗」の地名が残っていた(宝暦四年村明細帳「西成郡史」所収)


下新庄村
しもしんじようむら

[現在地名]鯖江市下新庄町・しん

三里さんり山西麓に位置し、集落は文室ふむろ川の両岸にある。三ツ屋みつや(現武生市)を経たあか川は当村で文室川に合流する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では今南西郡の「新庄村」(高四四六四・一一八石)に含まれ、村名は正保郷帳にみえる。同帳によれば、田方一千四二八石余・畠方一〇六石余。初め福井藩領、貞享三年(一六八六)幕府領、享保五年(一七二〇)鯖江藩領となる。


下新庄村
しもしんじようむら

[現在地名]野々市町新庄しんじよう三―六丁目

手取川扇状地扇央東部に位置し、北は粟田新保あわだしんぼ村。村の西部を富樫とがし用水の分流木呂ころ川が北流する。仮名付帳には下新庄新田とある。貞和元年(一三四五)一二月二九日の足利尊氏袖判下文写(四天王寺蔵「如意宝珠御修法日記」紙背文書)によると、常陸国片穂かたほ(現茨城県つくば市)半分に替えて「加賀国富樫新庄」地頭職が富樫高家の嫡男氏春に安堵されている。一説に、当村東の四十万しじま(現金沢市)は富樫本庄のうちとされることから(「三州志」など)、新庄の地は富樫新庄の遺称地とされ、本庄周辺の開発の進展によって成立したと考えられる。正保郷帳に村名がみえ、粟田新保村と一括して高付される。


下新庄村
しもしんじようむら

[現在地名]坂井町下新庄

定宗さだむね村の西にあり、坂井平野の中央部東寄りに位置し、南北に通る北陸街道西側に沿う。室町時代には興福寺領河口かわぐち新庄郷に含まれていたと考えられる。村名は慶長六年(一六〇一)の多賀谷三経への結城秀康知行宛行状(多賀谷文書)に「下新庄村」とみえる。

慶長一一年頃の越前国絵図でも新庄郷に属し、正保郷帳によれば、田方五〇八石余・畠方七二石。貞享三年(一六八六)幕府領、元禄一〇年(一六九七)葛野藩領、その後再び幕府領で福井藩預領、文政三年(一八二〇)福井藩領に戻る。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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