上新庄村(読み)かみしんじようむら

日本歴史地名大系 「上新庄村」の解説

上新庄村
かみしんじようむら

[現在地名]武生市戸谷とたに町・長尾ながお町・三ツ屋みつや

三里さんり山の西南麓にあり、村内を浅水あそうず川の上流文室ふむろ川が北流する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では今南西いまなんせい郡の「新庄村」に含まれる。その後分村して正保郷帳に村名がみえ、上新庄村は元禄郷帳から戸谷村・三ツ屋村・長尾村の三村に分れる。戸谷・長尾は山麓沿いに、三ツ屋だけが西方の平野中にあるが、耕地はそれぞれ混在している。この地の開発は越前国司藤原仲麻呂(恵美押勝)の手によるとも伝えられ、また長尾の村名は天文一九年(一五五〇)朝倉氏を頼って当地に来たという越後の長尾治景に、また戸谷は長尾氏が築いた出城の名に由来するともいわれるが、いずれも疑わしい。

正保郷帳によると田方一千三九〇石余・畠方二六六石余。貞享三年(一六八六)に福井藩領から幕府領となり、元禄五年(一六九二)から一時期土岐頼殷領となったが、享保六年(一七二一)以降は鯖江藩領。


上新庄村
かみしんじようむら

[現在地名]東淀川区上新庄一―三丁目・下新庄しもしんじよう三丁目・同六丁目・菅原すがはら七丁目・豊新ほうしん一―五丁目・瑞光ずいこう一丁目

西流する神崎川の左岸に位置し、北は神崎川を隔てて島下しましも吹田すいた(現吹田市)。吹田村との間に亀山かめやま街道吹田渡がある。古くは西接する下新庄村一村であったため南部では両村地が錯綜する。分村は元禄一三年(一七〇〇)という(西成郡史)新城とも書かれた(摂陽群談など)。村名は、戦国武将中川清秀の出城新庄城にちなむとも、味原あじふ(乳牛)牧の「新庄」にちなむともいう。


上新庄村
かみしんじようむら

[現在地名]氷上町上新庄

南端を葛野かどの川が流れ、東は下新庄村、北は岩屋いわや(七一八・三メートル)。「丹波志」では本庄・長尾を枝村とする。領主の変遷は黒田くろだ村に同じ。正保郷帳に村名がみえ田高一三七石余・畠高一七四石余、柴山・林あり、日損・水損少しあり。元禄郷帳では高三三〇石余。元禄一二年(一六九九)の山役六石余・小物成一二石余(「氷上郡郷村明細帳」氷上郡志)。「丹波志」でも高は変わらず、家数一一〇。今高は四三五石余とあり、天保郷帳では高四四一石余。三原みはら村・三方みかた村に入会山をもつ(鶴牧藩大概帳)


上新庄村
かみしんじようむら

[現在地名]坂井町上新庄・新庄

坂井平野の中央部東寄り、南北に通る北陸街道に沿った長畠ながばたけ村の西側の農村。「越前国名蹟考」は枝村として新屋あらや稲場いなばを記す。地籍図は新家垣内・稲場垣内・袖垣内・南垣内・北垣内の集落を記す。室町時代には興福寺領河口かわぐち庄新庄郷の一部であったと思われる。慶長六年(一六〇一)の多賀谷三経宛結城秀康知行宛行状(多賀谷文書)に「上新庄村」と記される。

慶長一一年頃の越前国絵図では新庄郷に属している。正保郷帳によれば、田方一千一二三石余・畠方一八〇石余。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となったが、文政三年(一八二〇)再び福井藩領となっている。


上新庄村
かみしんじようむら

[現在地名]野々市町新庄しんじよう一―二丁目

手取川扇状地の扇央東部に位置し、北は下新庄村。村の西部を富樫とがし用水の分流木呂ころ川が北流する。仮名付帳には上新庄新田とある。正保郷帳に村名がみえ高五一三石余、田方三二町四反・畑方一町八反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高五二九石、免六ツ三歩、小物成は鳥役六匁(鷹場につき免除)であった(三箇国高物成帳)。同年間の家高数五・百姓数一一(高免付給人帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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