城郭を中心に,武家地,町人地,寺社地で構成される近世城下町を建設する際,町人地に設定された地区に街路を通し,街区を作って街路に面した町の区画を定め,さらに町の中を個々の屋敷地に割ることを〈町割〉と呼ぶ。また町割の結果できあがった形態をも〈町割〉と呼ぶ。実際には武家地内の屋敷の割りつけ,また宿場町,港町,在郷町などの形態についても〈町割〉を用いることがあり,近世城下町に限定せず,都市内に街路を通して街区および区画を定め,区画内の敷地割を行うこと,いわば〈都市計画〉の意味で広く用いることが多い。その都市計画の結果として成立した街路,街区,町区画などの都市の形態も〈町割〉と呼んでいる。
都市計画としての町割は,藤原京,平城京,平安京など,すでに古代の宮都にみられる。これら古代宮都は,中国の都城制にならった計画都市であり,条坊制による整然とした町割が,形の上では成立していた。平安京の大路・小路の碁盤目状の道路によって区切られる,40丈(約120m)四方の街区は〈町(まち)〉と呼ばれ,1町ないし数町まとめて貴族邸宅の敷地となる場合もあるが,庶民居住部分では,四行八門制と呼ぶ南北通りのみに面する敷地割が行われていた。この敷地割が中世になるとくずれ,一つの街区が四つの面からなる四面町に移行する。やがてそれぞれの面が独立性を強めた丁(ちよう)と呼ばれるようになり,中世末にはさらに,縦横の街路をはさんで両側の丁で一つの町を構成し,両側町(りようがわちよう)が全面的に成立するようになる。中世京都におけるこの変遷は,都市の実際の居住者である商工業者たちが,実力で自分たちの活動に都合のよい,両側町という町割に作り変えたとみなすことができる。
近世城下町の中心である江戸の町割は,あきらかに40丈四方の正方形街区と両側町という中世京都で成立した町割を継承し,京間で60間(39丈)四方の街区中央に,20間四方の会所地(かいしよち)と呼ぶ空地をとり,街路沿いに奥行き20間の敷地を配し,街路をはさんだ両側で町を作る形態をとっている。ただ近世城下町における正方形街区は,江戸以外では駿府(静岡),名古屋など少数に限られ,大部分は空地をとらない長方形街区である。これは近世城下町の一つの源流と考えられる中世末の寺内町(じないちよう)や,各地の城下町で行われていた長方形街区を基礎とする町割を継承したためと考えられる。なお京都でも,1591年(天正19)に豊臣秀吉によって町割改造が行われ,中心部の周辺の街区で中央に南北の小路を通し,正方形街区を長方形街区に作り変えている。しかしこれら長方形街区の場合も,また城下町以外の宿場町,港町,在郷町など計画的な町割によらず成立した都市でも,街路をはさんだ両側で町を構成するという両側町の原則は変わらない。
日本の近代都市は,城下町をはじめとする近世都市を多くその基盤としているが,近世に形成された最も基本的な町割である両側町の形態は,自動車交通の発達などにより,街路のもつ意味が変化し,消滅した場合が多い。しかし,基本的な道路網や個々の敷地割など,踏襲されている要素も多く,近世都市で成立した町割の枠組みが,現代の都市空間を規定している場合が少なくない。
執筆者:玉井 哲雄
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
…また,寺内町,城下町,宿場町などに独特の土地割りが施されている。なお,都市内部の街路や家々の配列からなる土地割りを,とくに町割りと呼ぶ場合がある。 土地割りに関してA.マイツェンが,1895年に地籍図に即して集落と農地の研究を著した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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