下牧村(読み)しももくむら

日本歴史地名大系 「下牧村」の解説

下牧村
しももくむら

[現在地名]月夜野町下牧

後閑ごかん村の北、利根川左岸に位置し四ヵ村用水が流れる。北は上牧村に続き、もとは上牧村および北東の大沼おおぬま村を含め一村であったと伝え、古くは久野くや牧と称したという(郡村誌)。久野牧は「延喜式」左右馬寮に上野国九牧の一としてあげられており、弘仁二年(八一一)葛原親王に与えられた利根郡長野ながの(日本後紀)と同一牧とみる説もある。ただし久野牧を現沼田市上久屋かみくや町・下久屋町辺りに比定する説もある。

寛文郷帳によると田方五七石余・畑方一三六石余、沼田藩領。寛文三年(一六六三)の真田領村高書上控では高八七一石余。天和元年(一六八一)の郷村品々記録(小林文書)に当村内の新田として馬立うまたて新田(高四〇石余)鳥井原とりいはら新田(高一二〇石余)がみえるが、これらは沼田藩主真田信政時代の開発といわれる。


下牧村
しもまきむら

[現在地名]小松市下牧町・城南町じようなんまち

かけはし川下流右岸にあり、北東は上牧村、南は梯川を挟んで小松町となる。河口に近いため、水害に見舞われることが多かった。正保郷帳では高六六一石余、田方三四町二反余・畑方四町六反余、新田高四三石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一千八五石余、免五ツ、小物成は板船櫂役六〇匁(ほか九五匁退転)・地子銀一九匁(退転)、葭役一貫三五匁、そのほか川役二八匁・鮭役七三匁、外海船櫂役二一匁(出来)・安宅古川役七〇匁(出来)があった(三箇国高物成帳)向本折むかいもとおり村・今江いまえ村とともに今江潟木場きば潟・梯川の漁業権を専有しており、安永六年(一七七七)と天明五年(一七八五)には密漁を厳禁する命令が出されている(小松市史)


下牧村
しもまきむら

[現在地名]岡山市下牧、御津みつ御津堀越ほりこし

かな山の東側山麓斜面上にある。北隣の中牧村付近で蛇行した旭川東端を南流する。対岸牟佐むさ村、西は金山寺かなやまじ村。康永元年(一三四二)の「備前一宮社法」に「まき村上下」とある。明応六年(一四九七)には金山寺との間で境相論となったが、境界は旧来どおりとされた(同年六月一八日「浦上則宗等連署奉書」金山寺文書)。文禄五年(一五九六)の院家分高野帳(同文書)によれば当村内に金山寺領があった。

寛永備前国絵図に村名がみえ、高二八五石余。「備陽記」によると田畠二一町八反余、家数七二・人数五三八、高瀬船一四。文化年間の「岡山藩領手鑑」では直高五〇九石余、蔵入と家臣六名の給地。田高一八〇石余・畑高一三〇石余、家数一二三・人数五九八、牛三八、池七、樋七、猟師鉄砲三挺、藍瓶一本、猟船二・作船四・高瀬船一七を有し、漁労・舟運に従事するものがいた。


下牧村
しもまきむら

[現在地名]上牧町片岡台かたおかだい一―三丁目・さくらおか一―三丁目・大字下牧

馬見うまみ丘陵西北部に立地。慶長郷帳には「下巻村」とみえ村高三七〇・〇三石。近世初期は幕府領(代官大久保長安)。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領。のち同藩の二割半無地高増政策で村高四六七・七八八石。


下牧村
しもまきむら

[現在地名]伊那市大字西春近にしはるちか

中越なかごし(現上伊那郡宮田村)の北、天竜川とその氾濫原を見下ろす段丘上の村。天正六年(一五七八)の諏訪大社上社文書の上諏訪造宮帳に、「宮田(中)越・面木」などの郷と並んで「槇之分」と記されている。この「槇」は下牧村のことであろうか。天正一九年の信州伊奈青表紙之縄帳には、村位は中、村高は「百八拾七石三斗四升八合四勺 下牧」とある。


下牧村
しもまきむら

[現在地名]八尾町下牧

西川倉にしかわくら村の南西、野積のづみ川左岸の山腹にある。正保四年(一六四七)の年貢取立につき申上書(若林家文書)東川倉村などとともにみえる牧村与兵衛・孫三郎は当村の者とみられる。元禄一一年(一六九八)郷村高辻帳では西川倉村の五町ほど西にある枝村新田としてみえ、高六八石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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