下田城跡(読み)しもだじようあと

日本歴史地名大系 「下田城跡」の解説

下田城跡
しもだじようあと

[現在地名]下田市三丁目

鵜島うじま城ともいう。下田湾の西側入口、北・東・南の三方を海に囲まれた要害の地にあり、規模は東西約二五〇メートル・南北約四〇〇メートル。築城時期・築城者は不明。天正一六年(一五八八)北条氏直は豊臣秀吉軍の海からの進攻を必至とみて、伊豆奥郡の備えとして下田の地に注目し、清水康英を下田城主に定めた(同年某月九日「北条氏直判物写」相州文書)。天正一七年と推定される六月一五日の清水康英書状(清水文書)によると、康英は清水淡路守が下田城へ移ったことを賞し、城の守備を命じた。康英は北条氏所領役帳によると伊豆衆の一人で加納かのう(現南伊豆町)宇土金うどがねなどで計八二九貫七〇〇文の役高をもち、伊豆衆のうちで最大の貫高となっている。


下田城跡
しもだじようあと

[現在地名]南国市稲生

稲生いなぶの西南部にある小高い山の頂上近く、字土居どいにあった山城蛸森たこのもり城とも称した。城主は下田駿河守で、本姓は大中臣氏という。大中臣氏は文明(一四六九―八七)頃、当地に定着、勢力を伸ばして城を築いたものと推定されている。天文一六年(一五四七)長宗我部国親と戦い落城したという。本丸跡は東西三二メートル、南北二〇メートルの台地をなし、北西隅に井戸があったという(土佐国古城略史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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