日本歴史地名大系 「与力町」の解説 与力町よりきまち 山形県:鶴岡市鶴ヶ岡城下与力町[現在地名]鶴岡市山王町(さんのうまち)・鳥居町(とりいまち)荒(あら)町裏(うら)町の東にある東西の町並で、郭外の家中屋敷地。北に長山小路(ながやまこうじ)が並行する。町名は家老職に付けられた与力の士が住したことにちなむともされる(大泉掌故)。町割の時期は不詳だが、酒井氏入部後、寛永(一六二四―四四)以降と推定される。延宝六年(一六七八)の城下絵図には侍町六二間とあり、東端は疋田市右衛門下屋敷。同年の御家中仮名付(鶏肋編)に与力町とみえ、御奏者衆二〇〇石中村喜右衛門・上方御城米払役人一五〇石松宮角左衛門ら九名の屋敷があった。 与力町よりきまち 茨城県:水戸市水戸城下上町与力町[現在地名]水戸市栄(さかえ)町一―二丁目信願寺(しんがんじ)町の西端から北に進み、五軒(ごけん)町(長町)に至る町。町名は「其先き 源威君の御代、与力の一統へ此地にて宅地を授けられしゆへ」(水府地理温故録)この名になった。元禄三年(一六九〇)の令に「元真願寺屋敷前ヨリ五軒町坂ノ横町」の「吉田作左衛門前ヨリ村田友左衛門前マデ」を与力町とする(新編常陸国誌)。寛文城下町図(「水戸市史」所収)でこの町にみえる信願寺が、寛文三年(一六六三)の開基帳(彰考館蔵)では並松(なみまつ)にあり、「水府地名考」の与力町の項に「昔ハ此辺お(ママ)も並松町と云ひし」とあることから元禄以前は並松町とよばれたと思われる。 与力町よりきまち 石川県:金沢市金沢城下第三連区与力町[現在地名]金沢市宝町(たからまち)・小立野(こだつの)五丁目土取場(つちとりば)の北東に位置する。寛文五年(一六六五)与力の屋敷地となる(国事雑抄)。元禄六年(一六九三)の侍帳によると与力町に池野弥市右衛門・家木又八郎など五四名の家臣屋敷がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by