なが‐まち【長町】
- [ 1 ] 細長く人家の続いている町。
- [ 2 ]
- [ 一 ] 宮城県仙台市太白区の地名。江戸時代は奥州街道中田と北目(仙台)の間にあった宿駅。
- [ 二 ] 江戸時代、大坂の地名。現在の大阪市中央区日本橋一~三丁目から浪速区日本橋四~九丁目に至る間の堺筋の一帯にあたる。
- [初出の実例]「娘を堺へ縁組せしに、諸道具今宮から長(ナガ)町の藤の丸のかうやく屋の門まで」(出典:浮世草子・世間胸算用(1692)二)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
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長町
ながまち
[現在地名]金沢市長町一―三丁目・片町二丁目・長土塀二丁目
東は長町通、南西は大藪小路・出大工町・塩川町に、西は法船寺町・富本町・谷町に、北は長氏の下屋敷地などに囲まれた地域一帯。南から北へほぼ並行して一番丁から八番丁の通りがある。両側町で、町のほぼ中央を南北に横切る長町通に並行した通りがあり、通りの東側沿いに大野庄用水が流れる。用水には一―七番丁で各々橋がある。長町一番丁は、長町通の南際より北西へ一町三二間余で用水に至り、用水沿いに南は横伝馬町、西は長町二番丁に続く。二番丁はその北側で、長町通より屈曲しつつ用水を越えて法船寺町に至り、長さ三町一〇間余、三番丁は長町通から法船寺町まで長さ三町三三間、法船寺町に至る裏小路は表具屋小路とよばれた。四番丁は長町通から四丁三〇間余、法船寺町と富本町の境、字広みに至る。五番丁は長町通から四町五〇間余で分れ、西は富本町、一方は北へ少し折れて長町六番丁の西側横通りの南端に至る。また通り西方で南北に小路を出し、南は長町四番丁西端広みに至り、北は六番丁に交わって長土塀通に続く。
長町
ながまち
[現在地名]秋田市中通一丁目・同三丁目・同五丁目の各一部、千秋矢留町・同明徳町の各一部
上長町・中長町・下長町と土手長町に分れ、土手長町はさらに上丁・中丁・中横丁・末町に分れ、その北に古川堀反町がある。現在の中通一丁目の一部に上長町・土手長町中丁の一部が含まれ、現中通三丁目の一部に中長町・土手長町中丁・同中横丁・同末町が含まれる。現中通五丁目の一部には下長町・土手長町末町が含まれ、現千秋矢留町・同明徳町の一部が土手長町上丁と古川堀反町。
長町(上・中・下)は西根小屋町の西に位置し、土手長町は、その西に連なる。延享(一七四四―四八)頃の御城下絵図には、両町の位置に古川町と長町とある。古くは長町を古川町、土手長町を長町といい、その呼称は「梅津政景日記」寛永六年(一六二九)三月二三日条に併記されることから、藩政初期にさかのぼるといえよう。
長町
ながまち
[現在地名]盛岡市長田町など
三戸町の西の南北六町ほどの町人町(内史略本「盛岡砂子」など)。東は新山小路によって仁王小路に、帷子小路・上横町を隔てて三戸町に接続し、西は田地を隔てて梨木町、南は材木町、北は上田門前町(上田小路の一部)に接する。城下のうちで最も長い町のため、長町と称されたという。寛永城下図の当地は田畑であったが、元文城下図では世俗に上横町と称される両側町に長町ヨコ丁、その西に隣接して南北に両側町が形成されている。なお天和二年(一六八二)には長町に毎月二日・一二日・二二日の新市が命ぜられており(御家被仰出)、この時以前に形成された町と考えられる。
長町
ながまち
道頓堀川に架かる日本橋(現南区)から真っすぐに南下する道に開かれた両側町を総称していう。南端は鼬川上流に架かる今宮橋で、それ以南は今宮村。この橋から南に続く街道が紀州街道とよばれた。長町は北から一―九丁目に分れていたが、当初からこの町名ではなく、明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図では北から長町半町・新介町・甚左衛門町・喜右衛門町・けかわや町(現南区)とみえ、続く町域には記載がなく、おはり坂町・かさや町・茂介町と続く。記載のない部分は明暦―寛文年間(一六五五―七三)の近世大坂地図には谷町が記される。延宝八年(一六八〇)喜右衛門町の部分が長町四丁目、谷町の部分が長町六丁目に変更され、元禄六年(一六九三)には北から長町一―九丁目となった。
長
町
ながとろまち
面積:三〇・四〇平方キロ
秩父山地の北東部に位置し、秩父郡の北東端を占める。東は大里郡寄居町、南から西にかけては皆野町、北は児玉郡児玉町・美里町に接する。中央部を南から北へ荒川が蛇行しながら流れる。荒川に沿って国道一四〇号と秩父鉄道が通る。周囲を山に囲まれた山間地で、主要産業は農林業、養蚕・コンニャク・畜産などの生産が多い。縄文時代の遺跡は、町の南部、宝登山神社に向かう参道の両側にあり、前期と中期の土器が多量に出土している。
長町
ながまち
[現在地名]米沢市春日一―二丁目
銅屋町の北、米沢街道両側に沿って発達した町人町。慶長年間(一五九六―一六一五)に成立した脇町一三町のうち。寛文一二年(一六七二)の惣町軒数目録によれば軒数八三余、うち町役免除屋は二六(番匠屋敷一二余・組頭屋敷五・検断屋敷二など)。当町には藩御用大工(番匠)が多かった。享保一〇年(一七二五)の町方書上によれば町の長さ四町四八間余・道幅六間余、家数は本屋一三二・名子九。ほかに長さ二五間・道幅二間余の木ノ実御蔵に至る脇町、長さ二五間・道幅二間の伊藤御蔵に至る脇町、長さ二五間・道幅三間の袋町に通じる脇町があった。
長町
ながちよう
[現在地名]長岡市長町一―二丁目
城郭の北方にあたり、玉蔵院町と丁字の関係をなして北に延長し、西側は町家の関東町・桶屋町・神田町、東側は袋町・稽古町を連ねた長さと等しい。北端にある浄土真宗本願寺派の正覚寺は、寛喜元年(一二二九)に善性房鸞英が信濃国水内郡若槻東条(現長野市)に創立。
長町
ながまち
[現在地名]白石市 長町
中町の北に続く六町の一で、もとは永町と書いた。北は亘理町、東は富商阿子島彦助屋敷角から彦助横丁をもって清水小路。西は本鍛冶小路で、その西の外北小路へは神明横丁が通じる。この横丁の中央には南北に堀が流れ、堀の東側に神明社の神官佐藤家の屋敷があった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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長町 (ながまち)
大阪市中央区日本橋筋と浪速区日本橋の旧町名。豊臣秀吉が大坂から堺へ通う便宜のため開いた町といわれる。日本橋から南へ一直線にのびた長い町で,はじめ北から南へ長町,新助町,甚左衛門町,喜左衛門町,毛皮屋町,谷町,尾張坂町,清助町(笠屋町),茂助町と9町が続いていた。これらの町々が長町と改められた時期は未詳であるが,1693年(元禄6)改めの水帳には長町1~9丁目とある。1792年(寛政4)このうち長町1~5丁目を日本橋1~5丁目に改め,6~9丁目は長町の名を残した。紀伊,和泉から大坂への入口であったため通行人が多く,街道の両側には旅籠屋が軒を並べ,1日数百人が宿泊したという。また鮮魚の立売りで知られ,2丁目あたりから6丁目にかけては傘(からかさ)の製造業者が多く,名産として知られた。1872年(明治5)日本橋筋1~5丁目と改称,1943年南区と浪速区に分割された(89年,南区は東区と合区で中央区となる)。
執筆者:藤本 篤
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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