中世科学(読み)ちゅうせいかがく

改訂新版 世界大百科事典 「中世科学」の意味・わかりやすい解説

中世科学 (ちゅうせいかがく)

ここにいう中世科学とは〈ヨーロッパ中世科学〉の謂であり,3世紀から14世紀にかけて西欧キリスト教世界を背景として発達し,ラテン語により記録された科学のことである。この〈中世ラテン科学〉は,ギリシアアラビアの学術文献が精力的にラテン語訳された12世紀の大翻訳時代を境に大きく前期と後期に分けられる。さらに前期は3~4世紀の〈教父の時代〉,5~7世紀の〈ラテン編纂家の時代〉,8~9世紀の〈カロリング・ルネサンスの時代〉,10~11世紀の〈アラビアとの接触の時代〉に,後期は〈12世紀ルネサンスの時代〉,13世紀の〈自立と総合の時代〉,14世紀の〈ガリレイの先駆者の時代〉に分けられよう。

 3~4世紀に,キリスト教は他宗教を圧してヨーロッパに君臨する基盤を整えるが,このときギリシアの科学や哲学はキリスト教教父たちの手にうつり,この立場から再考察の対象となる。これらの教父たちがギリシアの自然観に対して行ったキリスト教的変容は主として以下のようなものであった。(1)ギリシア的な〈永遠な第一質料〉という考え方を否定して,これに代えて神による〈無からの創造〉というキリスト教的な考え方を自然学のなかにもちこんだこと。(2)〈世界の周期的循環〉というギリシア的な考え方を否定して,世界を終末に向かう直線的な〈神の摂理〉の進行というキリスト教的な概念をこれに代えたこと。(3)〈天体の運動の人間の運命への影響〉というヘレニズム占星術の考え方を否定して,人間の〈自由意志〉を擁護したこと。これらはその後の西欧科学の基本的枠組をつくったものといえる。こうした思考革命はすでにエイレナイオス,テルトゥリアヌス,カッパドキアのバシレイオスなどの教父によって部分的に行われていたとはいえ,それを最も明確に自覚的に遂行したのはアウグスティヌスである。5世紀になると,それまで細々と伝わっていたギリシア・ローマの科学の伝統を集大成して,いわゆる〈四科quadrivium〉(幾何学,天文学,算術,音楽)の摘要書をつくろうという動きが生じてきた(自由七科)。そのようなものとして,マクロビウス,マルティアヌス・カペラ,カッシオドルス,ボエティウス,イシドルスらの著作が挙げられる。これらの内容は,まだそれほど水準の高いものではないが,中世前期において西欧知識人の基本的な科学的教養を培ったものとして重要である。8世紀にはカール大帝の下にイギリスからアルクインがよばれ,カロリング・ルネサンスが興るが,ここにもたらされたものはイングランドに地中海経由で一足さきに受け入れられていた科学知識を発展させたベーダらの天文学や自然学であった。またエリウゲナは独自な自然論を展開し,その宇宙論はT.ブラーエの天文体系に近づいたともいわれている。

 10世紀になるとアラビア科学との接触がはじまり,のちに教皇シルウェステル2世となるオーリヤックジェルベールゲルベルトゥス)はカタルニャの地でアラビア学術に接し,これをもってフランスで多くの弟子を教え,大きな影響を与えた。またコンスタンティヌス・アフリカヌスConstantinus Africanusはアフリカの地でアラビア医学を学び,それを翻訳し,サレルノの医学校の興隆を大いに刺激した。しかしなんといっても,西欧世界がギリシア,アラビアの学術を本格的に受け入れるのは,12世紀に入ってからである。スペインのトレドシチリア,および北イタリアの諸都市において,ユークリッドアルキメデスプトレマイオスアリストテレスの自然学,フワーリズミー,イブン・シーナー,イブン・アルハイサムなどの第一級の科学文献がラテン語に訳され,後の〈科学革命〉にいたる西欧科学の知的基盤をつくった。この〈12世紀ルネサンス〉の翻訳者として,クレモナのゲラルド,バースのアデラード,カリンティアのヘルマンHermann von Karinthia,チェスターのロバートRobert of Chesterらが知られているが,とくに70種以上の科学文献をアラビア語からラテン訳したゲラルドの功績は大きい。

 13世紀には,このようにしてとり入れられたギリシア,アラビアの科学の遺産の上に,ようやく西欧科学の独自な活動が開始される。ヨルダヌスは棹秤や斜面の静力学的問題を〈仕事〉や〈モーメント〉の概念を内包する原理によってみごとに証明し,グロステストは数学的演繹と経験的実証とを結びつける数学的経験科学の独自の方法論を展開し,その弟子R.ベーコンはこの方法論をさらに発展させ,光学の研究においてそれを実践した。またこのとき新たに受容されたアリストテレスの自然学は,アルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクイナスに大きな影響を与え,科学知識の原理的再編成がなされた。14世紀になると,こうしたアリストテレス的自然学のもつもろもろの難点が指摘され,〈ガリレイの先駆者〉たちが登場することとなる。それは1277年のパリの司教タンピエÉtienne Tempierの異端断罪に端を発し,アリストテレスの学説が批判されると,イギリスではブラドワディーンを中心にダンブルトンのジョンJohn of DumbletonやスワインズヘッドRichard Swinesheadらが,アリストテレス運動論の数学的難点を指摘し,この克服のために新たな数学的定式化を試み,そのなかには,ガリレイの〈落体の法則〉を先取りするものも現れた。大陸ではビュリダンを中心に,ニコル・オレーム,ザクセンのアルベルト,インヘンのマルシリウスMarsiliusらが,アリストテレス運動論の自然学的難点に注目し,あらためて〈インペトゥス理論〉を発展させ,〈運動量〉の概念,〈慣性〉の法則,〈等加速運動〉の幾何学的定式化などに向かった。こうした中世末期の運動論は,フランスの科学史家デュエムらにより〈近代科学〉のはじまりであると主張され,学界の注目を集めた。たしかにこれらが個々の理論や定式化において近代科学との連続性があるのは事実であるとしても,同時に全体として近代の〈科学革命〉と本質的に異なるパラダイムの上にのっていることも見落としてはならない。

 まず中世科学はアリストテレス的なコスモス像--大地が中心にあり,その周りを四元素と天球が囲んでいる--を前提としている。〈科学革命〉はこれを根本的に否定した。第2に中世科学は目的論的構造をもち,デカルトの機械論的自然観とは無縁である。第3に中世自然学者の運動の数学化は,あくまでも〈想像〉における可能性の議論であり,現実の実験的測定と結びついて実在の数学的秩序を樹立するにはいたらなかった。第4に中世では科学は究極的に神を志向する神学者たちが,被造物としての世界全体を整合的に思索する一部として,今日の科学に該当する問題をとり上げたのである。この意味で本質的に中世科学は中世哲学の,さらには中世神学の一部であり,これに対し近代科学はまさにこうした神学や哲学からの分離を目ざすものであった。
アラビア科学 →ギリシア科学
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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