日本大百科全書(ニッポニカ) 「中央アジア音楽」の意味・わかりやすい解説
中央アジア音楽
ちゅうおうあじあおんがく
西アジア、南アジア、東アジア、東ヨーロッパに取り囲まれたこの地域の音楽は、これらの大文明の影響を如実に示すと同時に、ここから周辺に多大な影響を及ぼしてきた。紀元前2世紀ごろから漢代中国との文化交流が緊密になり、中央アジア音楽は西域楽(せいいきがく)・胡楽(こがく)として唐代の国際的音楽文化形成に重要な役割を果たした。唐代の十部伎のうち五部伎(クチャの亀茲(きじ)楽、サマルカンドの康国楽、カシュガルの疎勒(そろく)楽、ブハラの安国楽、トゥルファンの高昌(こうしょう)楽)までが中央アジアの都市国家の音楽であった。7世紀末~10世紀、中央アジアの大部分がイスラム化するに至り、しだいに西アジアとの関係が濃厚になってくる。理論、楽器、歌唱形式、社会機能、文化象徴性といった音楽諸側面のいずれにおいても、相互影響の痕跡(こんせき)が認められる。
音楽理論の面では、アラブ音楽の代表的理論家とされる10世紀のアル・ファーラビーや11世紀のイブン・シーナーが実は中央アジア出身であったことをはじめとして、14世紀のジャミAbdurakhman Dzhamiの「音楽論」に展開されるピタゴラス的数理による17音列を基礎とした12のマコームmaqom(マカーム)音階・旋律法の理論と、ダフdaff(タンバリンの一種)の打奏に基づくリズム論、さらに16世紀に確立したシャシマコームshashmaqom(六つのマカーム)体系が重要である。この流れをくみ、現存する理論と実践の体系としてカザフのキュイkjuiやウイグルのマカームmaqamなどが世界観(たとえば生命の循環性)や生活様式(遊牧民・定着民それぞれに不可欠な動物との関係など)を象徴するものとして、演奏家と聴衆に根強く共有されている。
音楽理論は、演奏媒体としての楽器および身体の象徴的概念化とも直結している。とくに重要な楽器(キルギスのコムズkomuz、カザフ、ウズベクのドンブラdombra、トルクメン、タジク、カラカルパクのドゥタールdutarといった一連の撥弦(はつげん)楽器)では、形体が頭・首・胴などの身体部分になぞられて、演奏曲の段階に応じて強調する楽器部分を変えていくことにより、音楽の形式感を序奏から頂点に至る過程で明確に打ち出している。また、カザフ、ウズベクのコビズkobiz、キルギスのキアクkiak、トルクメン、ウズベク、タジクのギジャクgidzhakなどの擦弦楽器は、持続音を強調することにより叙事詩歌唱伴奏などでの緊迫した音楽時間を保つうえで重要である。ほかの楽器としては、ウズベク、タジクのドイラdoira(タンバリンの一種)や鍋(なべ)形太鼓、広く分布する金属製口琴、多種の縦笛がある。
歌唱は楽器の伴奏による場合が多く、とくに重要なのは民族的英雄や歴史と現在における事件を歌い上げる叙事詩である。キルギスのマナスManasという叙事詩は例外的に無伴奏で歌われ、七音節(四プラス3)の詩型を基本にして、パターンの長大な反復によって人々を物語のなかに引き込む。また、文芸と結び付いた歌唱ばかりでなく、のどの特殊な操作により声に含まれた倍音の響きを変えて、1人で2~3声部の旋律線を同時に繰り広げたり、声門閉鎖音を利用した転がるような装飾音型を自由リズムで操ったり、あるいは、多人数によって叫びや平行歌唱をするなど、多彩なうたの世界をもっている。
社会機能としては、シャーマニズム儀礼、労働(牧畜・農耕)、通過儀礼(結婚式・葬式)、子守などに直結した形が顕著である。
中央アジア音楽は、唐代中国に西域楽・胡楽として受け入れられて音楽的文化混交の典型を示したこと、三味線と共通の祖型から発した楽器が愛用されていること、ロシア民族の移入に伴いヨーロッパ的音楽表現と融合される一方で民族のアイデンティティを表明するものとして伝統が見直されつつあることなど、多くの興味深い問題を投げかけている。
[山口 修]