中富村(読み)なかとみむら

日本歴史地名大系 「中富村」の解説

中富村
なかとみむら

[現在地名]所沢市中富・中富南なかとみみなみ中新井なかあらい五丁目・中新井

南永井みなみながい村の北西にあり、北東上富かみとめ(現三芳町)、北西は下富しもとみ村。村名は「なかとめ」ともよばれる。入間いるま郡河越領に属した(風土記稿)。元禄七年(一六九四)川越藩により開発された三富さんとみ(「さんとめ」ともよばれる)新田一村。同新田は「論語」子路篇の「富」を村名に用い、川越城に近いほうから上富・中富・下富と命名された。地割は一戸分はほぼ間口四〇間・奥行三七五間。幅六間の道に面した表口を屋敷とし、その後ろに耕地、さらに林を配置した(三富開拓誌)。一戸当りの面積は屋敷五畝・耕地約五町歩で(元禄九年「検地帳」多福寺文書)、土地の生産性の低さを耕地面積の広さで補った。元禄九年川越藩により中富村として検地が実施され、高八六二石余・反別二一一町九反余ですべて畑。

中富村
なかどみむら

[現在地名]鹿本町中川なかがわ

内田うちだ川・迫間はざま川および合志こうし川が菊池川に合流する北にあり、北は玉名たまな小島おしま村、西は藤井ふじい(現山鹿市)に接する。貞治三年(一三六四)二月日の大友氏時当知行所領所職注進状案(大友家文書録)に「千田庄付重富、永富両名」とある永富名は当村に比定される。文中三年(一三七四)五月二二日、菊池武朝は菩提寺正観しようかん(現菊池市)に「千田庄永富村」の田地四町を寄進(「菊池武朝寄進状」正観寺文書)、同年一〇月には「千田庄之内永富村」の検地が行われ、同検地帳(同文書)によると田は居屋敷・昼塚・円内・榎町早田の五ヵ所、畠は枳林・竹原町・烏菱嶋西・河崎河原・梁瀬・門田津留の六ヵ所にある。

中富村
なかとみむら

[現在地名]君津市中富

中野なかの村の南方に位置し、小糸こいと川が北側を西流し、同川の北側に飛地の伽藍がらんがある。天正一九年(一五九一)検地があり、周西郡中富郷畠野帳(中富自治会文書)と田野帳(同文書)が残る。畠野帳によると都合二八町八反余、ほかに屋敷分七反余。粟・きび・大豆・胡麻などのほか木綿を植付ている。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一八八石。

中富村
なかとみむら

[現在地名]加西市中富町

越水うてみ村の南東、万願寺まんがんじ川中流左岸に位置する。西は殿原とのはら村。当村は郡内第一の村高を誇る大村である。古くから開け、整然と区画された条里の遺構もあり、かきつぼなかつぼもりつぼの小字が残る。当地の条里遺構は北東へ四五度に傾いている。天正一五年(一五八七)九月二四日の豊臣秀吉知行方目録(木下家文書)に「中とみ」とみえ、当地の二八石などが豊臣秀吉から木下家定に宛行われている。同一八年七月二三日、伊藤(伊東)長次は殿原村と中富村の井水争論について殿原村へ二日二夜、中富村へ一日一夜ずつ水を引くことと定め、中富村役所・同惣中に申渡している(「水配分定書」中田文書)

中富村
なかずみむら

小値賀島の枝郷。江戸時代は平戸藩領で、元禄一二年(一六九九)の平戸領分郷村帳では小値賀村枝村として村名がみえ、高六五〇石余で、ナカズミの訓を付す。また小値賀浦の枝浦として中富浦(無高)が記される。元禄郷帳では古くは中留村とし、ナカトメと訓じたとする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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