中寺村(読み)なかでらむら

日本歴史地名大系 「中寺村」の解説

中寺村
なかでらむら

[現在地名]いわき市三和町中寺みわまちなかでら

好間よしま川が南東流し、その周辺に集落が点在する。磐城平いわきたいら城下から蓬田よもぎだ(現平田村)方面への街道が通る。南東は渡戸わたど村、北西下市萱しもいちがや村、北東は一山越えて上永井かみながい村。磐前いわさき郡に属した。もと沢渡さわたり村のうちで、近世領主の変遷は磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)泉藩領、元禄一五年(一七〇二)幕府領、寛延二年(一七四九)常陸笠間藩領、安永六年(一七七七)幕府領、翌七年磐城平藩預、寛政二年(一七九〇)以降笠間藩領。


中寺村
なかでらむら

[現在地名]今治市中寺

今治平野のほぼ中央、蒼社そうじや川の南岸に位置する平地村。村の形は短冊形で、東は八町はつちよう、西は徳重とくしげ、南は松木まつぎの各村に接し、北は蒼社川を境に小泉こいずみ村に対する。土地は肥沃で多くの水路があって灌漑の便よく、東部の今治往還や各村への里道も通じ、交通も至便である。

村内各所より、県下弥生時代中期を代表する中寺式土器が出土する。また全域に条里の遺構が残り、中央部の字下本郷は古社寺が集中する。


中寺村
なかでらむら

[現在地名]美浜町中寺

みみ川の右岸、河原市かわらいち村の上流に立地。新庄しんじよう道沿いの村。正保郷帳によれば田方二四〇石余・畠方一〇石余。文化四年(一八〇七)の戸数二五、人口一一〇(雲浜鑑)。村域内に地侍本条氏の館跡があり、「若狭郡県志」に「中寺村有宅地、相伝、此辺有禁裏御領、本条某掌之矣、本条殿未何人也、一説堂上近衛家之弟也、永禄六年朝倉氏攻佐柿国吉之城時、本条某亦加勝久軍、而防兵云」とある。


中寺村
なかでらむら

[現在地名]香寺町中寺

土師はぜ村の北西に位置し、恒屋つねや川左岸に立地する。北は高橋たかはし(現福崎町)神東じんとう宮脇みやわき(現姫路市)正八幡神社の天正一九年(一五九一)九月一日の祭礼奉納神事相極次第(正八幡神社文書)に中寺村とみえる。正保郷帳では田方一五三石余・畑方二二石余、「芝山有・新田有」と注記される。天保郷帳では高二二五石余。


中寺村
なかでらむら

[現在地名]表郷村中寺

やしろ川中流左岸に位置し、西は関場せきば村、南は梁森やなもり村、東は堀之内ほりのうち村、北は形見かたみ(現東村)。字屋敷やしきに曹洞宗常在じようざい院があり、応安七年(一三七四)源翁心昭が弟子の大仙良碩とともに当地に留錫したことに始まるという。江戸時代は初め会津領、寛永四年(一六二七)白河藩領、寛保元年(一七四一)以降越後高田藩領。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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