中村城跡(読み)なかむらじようあと

日本歴史地名大系 「中村城跡」の解説

中村城跡
なかむらじようあと

[現在地名]相馬市中村 北町・本町、西山 西山・水沢

宇多うだ川の北岸に位置し、近世以前は城のすぐ南下を同川が流れていたとされる。馬陵ばりよう城ともいわれる。近世には相馬藩主相馬氏の居城で、中村城下のほぼ北西端に位置した環郭式平山城であった。現在は県指定史跡となっている。

〔近世以前〕

本丸周辺は城に適した自然丘陵で、九世紀初頭に坂上田村麻呂征夷大将軍の名のもとに陸奥侵攻を行ったとき、菅原啓実が土塁を築いたのが最初と伝えられる。また、文治五年(一一八九)源頼朝が奥州藤原氏を討滅しての帰途、ここに仮の館を造り、旅営をしたという(奥相志)。建武二年(一三三五)七月三日、結城宗広が後醍醐天皇から宇多庄を恩賞として与えられ(「後醍醐天皇綸旨」結城神社文書)、宗広は一族中村広重を熊野堂くまのどう城に配して宇多庄を統治させたというが、南北朝期には中村城は熊野堂城の付城として利用された可能性がある。大永年間(一五二一―二八)中村広重の末裔と称する者が樵夫の勧めにしたがって築城工事を始めたが、黒木くろき城の城主黒木弾正信房がこれを奪い、弟を配して中村大膳義房と称させたという。当時、宇多郡の支配をめぐって小高おだか(現小高町)を居城とする相馬氏は伊達氏と争っていたが、黒木・中村の兄弟は伊達氏に属していた。そのため、天文一二年(一五四三)相馬顕胤が黒木・中村の兄弟を相善そうぜん(現新地町)に誅して宇多郡を支配下に置き、中村城に城代として草野式部直清を入れ、中村氏を称させている。このとき、黒木城には青田信濃顕治が城代として置かれた(以上「奥相志」など)。なお、同一七年と推定される三月四日の伊達晴宗書状(伊達家文書)によると、相馬顕胤(盛胤の父)が中村の地に在陣している。

永禄六年(一五六三)に中村式部は青田信濃とともに伊達氏の誘いを受け、相馬氏に背いたために相馬盛胤と嫡子義胤に討たれ、盛胤の一子隆胤が中村城の城代となった。天正一八年(一五九〇)一二月七日、義胤は四万八千七〇〇石を宛行われているが(「豊臣秀吉朱印宛行状」相馬文書)、同年に隆胤が伊達氏との戦いで石上いしがみ村の童生どうしよう淵で戦死したあと、中村城西にし(西二の丸)にはすでに家督を義胤に譲っていた盛胤が入り、慶長七年(一六〇二)に病没するまで北からの伊達政宗の進攻に備えていたとされる。

〔近世〕

慶長五年の関ヶ原の合戦に相馬義胤は参戦しなかったが、徳川方からは石田三成方に属していたと目されていた。そのため、同七年五月に当時牛越うしごえ(現原町市)を居城としていた義胤は改易となり、とりあえず親交のあった三春みはる(現三春町)の城代蒲生郷成を頼って会津領の大倉おおくら(現船引町)に移った。


中村城跡
なかむらじようあと

[現在地名]中村市丸の内

市街地西北方の古城こじよう山と通称される山にある四つの城を総称していう。城跡はいまほとんど公園(為松公園)となっていて桜の名所として知られ、山上に土塁や石垣がわずかに残る。一条氏の四家老の一人、為松氏の城が築かれたのが最初と考えられており、長宗我部氏時代には中村城監、江戸時代には元和の廃城まで中村山内氏が居城した。

天正一七年(一五八九)の中村郷地検帳には「爰ヨリ御城」として計一七筆が書上げられており、検地順に東城(二筆、一反三〇代余)為松ためまつ(六筆、二反二八代余)・中ノ森(三筆、三反九代余)・御城(二筆、一反一八代余)・今城(四筆、一反四八代余)が記されている。しかし四つの城の各々の位置は必ずしも定かでない。「東城」は一条氏の一族西小路氏の居城といわれ、現上小姓かみこしよう町の上の山にあたり、大体いま三ノ丸とよばれているところになる。「為松城」は為松氏の居城で、いま本ノ丸、二ノ丸とよばれているところであり、土塁が残るのもこの部分である。「中ノ森」は「為松城」の北方下、現在市立動物園のあるあたりとされるが、中村高校の校地造成工事などで取壊された旧差出さしで山の尾根の部分であったかもしれない。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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