日本歴史地名大系 「中村城跡」の解説
中村城跡
なかむらじようあと
〔近世以前〕
本丸周辺は城に適した自然丘陵で、九世紀初頭に坂上田村麻呂が征夷大将軍の名のもとに陸奥侵攻を行ったとき、菅原啓実が土塁を築いたのが最初と伝えられる。また、文治五年(一一八九)源頼朝が奥州藤原氏を討滅しての帰途、ここに仮の館を造り、旅営をしたという(奥相志)。建武二年(一三三五)七月三日、結城宗広が後醍醐天皇から宇多庄を恩賞として与えられ(「後醍醐天皇綸旨」結城神社文書)、宗広は一族中村広重を
永禄六年(一五六三)に中村式部は青田信濃とともに伊達氏の誘いを受け、相馬氏に背いたために相馬盛胤と嫡子義胤に討たれ、盛胤の一子隆胤が中村城の城代となった。天正一八年(一五九〇)一二月七日、義胤は四万八千七〇〇石を宛行われているが(「豊臣秀吉朱印宛行状」相馬文書)、同年に隆胤が伊達氏との戦いで
中村城跡
なかむらじようあと
市街地西北方の
天正一七年(一五八九)の中村郷地検帳には「爰ヨリ御城」として計一七筆が書上げられており、検地順に東城(二筆、一反三〇代余)・
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報