中津城跡(読み)なかつじようあと

日本歴史地名大系 「中津城跡」の解説

中津城跡
なかつじようあと

[現在地名]中津市中津 二ノ丁

北東流する中津川(もと山国川の本流)を西にして、扇形に築城していることからせん城ともいい、地名から丸山まるやま城・大家おおえ城ともよばれ、また検地に反対して滅ぼされた犬丸越中守の居城を壊し、その材木をもって修造したため小犬丸こいぬまる城ともいったという。周防灘に注ぐ山国やまくに川河口部右岸にあった。天正一五年(一五八七)七月三日豊臣秀吉は豊前六郡を黒田孝高(如水)に安堵した(豊公遺文)如水は翌一六年尾畑氏の居城をにわかに修理しかつ営作した中津川の城に入ったという(黒田家譜)。「宇佐郡記」には、中津川丸山に扇の縄を引き、求菩提山玄海法印を召して地鎮の法を執行、同一六年一月一一日より居城経営ありとみえる。貞享二年(一六八五)の孝高縄張絵図(県立大分図書館蔵)には、本丸・二の丸・堀川口・海津口・小倉道・京泊などがみえる。慶長五年(一六〇〇)九月九日大友吉統は西軍として立石たていし(現別府市)で兵をあげた。如水は同日中津城を出馬し、犬丸原で閲兵のあと高森たかもり(現宇佐市)に入り、翌一〇日には高田たかだ(現豊後高田市)を経て国東くにさき半島を横断し、一一日には富来とみく(現国東町)に向かった。


中津城跡
なかつじようあと

[現在地名]和歌山市中之島

中之島なかのしまの西部、志磨しま神社の北方にあったとされるが、現在その跡は残らず、古城ふるじろの小字がある。北の紀ノ川、南の和歌川に挟まれた低湿地にあって戦略物資の輸送に便利であり、攻めるに難い堅城であったと考えられる。

「続風土記」は「雑賀城の出城なり」と記し、太田おおだ村の城跡の項で、織田信長先手となった太田党の太田左近が、中津城を攻めて雑賀権太夫を討取ったと述べる。天正五年(一五七七)二月、信長は紀州雑賀さいかに出兵した。このとき信長軍と戦ったのは雑賀五組のうちじゆつヶ郷と雑賀の勢力で(信長公記など)、十ヶ郷の鈴木孫一降伏などにより信長は兵を引揚げた(同年五月二〇日付「織田信長印判状案」本願寺文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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