中田宿(読み)なかだしゆく

日本歴史地名大系 「中田宿」の解説

中田宿
なかだしゆく

[現在地名]高岡市中田

北陸街道(巡見使道)の宿。東の常国つねくに村まで一〇町四八間、庄川を挟み西対岸の中之宮なかのみや村まで二七町、南の東保ひがしぼ(現砺波市)まで一八町。庄川(幅五〇間・深さ四尺五寸)には渡船場が設けられていた(正保四年「越中道記」)。天正一四年(一五八六)五月、上杉景勝が当地で増山ますやま(現同上)城主中川清六の接待を受けており(「上杉景勝上洛日記帳」山形県米沢市立米沢図書館蔵)、早くから要所として開け、檜物師も居住していたことが知られる(文禄五年「前田利長判物」上埜家文書)。慶長一〇年(一六〇五)八月二三日、前田利長は中田村船渡場の設置を許し、中田・増仁ぞうに下麻生しもあそうの三村が管理することとなった(前田利長判物「諸留覚書」川合家文書)。また米や布など年貢の地払い・交換市場として位置付けられ、家臣に中田で換金し、年貢を皆済するよう命じている(片口家文書)。同一四年高岡城が新築され、北陸街道は今石動いまいするぎ(現小矢部市)、高岡、大門だいもん水戸田みとだ(現大門町)、富山の路線に変更されたが、寛文(一六六一―七三)頃までは主要宿駅であった。慶長二〇年には宿送人足伝馬之御印が今石動と同様中田町惣中に下付され(「御郡町立ヶ所持伝旧記調理帳」菊池家文書)、元和二年(一六一六)の三ヶ国宿々役家高書上(温井家文書)では役家二〇軒で、水戸田宿と同じく半役であった。


中田宿
なかだしゆく

[現在地名]仙台市中田一丁目・同三丁目

近世奥州街道の宿駅で、前田まえだ村のうち。仙台城下より江戸に向かって、根岸ねぎし長町ながまち宿より増田ますだ増田宿(現名取市)に継立てる。長町宿からは三二町余で本馬四〇文・軽尻二七文、増田宿へは三一町余で本馬三五文・軽尻二三文(「宿場定」四冊留)。文化一三年(一八一六)の「道中往来」(宮城県図書館蔵)に、長町や中田の馬を増田までと歌われている。仙台城より二里一三町四三間の杭が当町仮屋かりや前に、同二里半の杭が当町出放の南に、仙台城下北目きため(宿駅)より二里の塚が同出放にあったとされる。元禄年中(一六八八―一七〇四)の独案内(斎孝助家蔵)によると、宿の南二三町の所に一里塚があった。享保九年(一七二四)の前田村絵図(同家蔵)によると、奥州街道は大海道おおかいどうと書かれ、町の中央を堀が流れ、検断屋敷や御休所も記されている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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