増山城跡(読み)ますやまじようあと

日本歴史地名大系 「増山城跡」の解説

増山城跡
ますやまじようあと

[現在地名]砺波市増山

和田わだ川東岸の標高一二〇メートル、比高七〇メートルの山上に築かれた城。松倉まつくら(現魚津市)守山もりやま(現高岡市)と並び越中三大山城の一つと称される。県指定史跡。天文一二年(一五四三)頃神保氏を再興した長職は富山に築城し、同じ頃当城が富山城の支城として築かれたとみられる。永禄三年(一五六〇)四月二八日の長尾景虎書状(越佐史料所収福王寺文書)によると、新川にいかわ郡の椎名氏を支援する越後の長尾景虎(上杉謙信)は長職の拠る富山城を攻撃し、長職は三月晦日夜中に城を捨てて「増山」へ逃れた。景虎は長尾方の越中衆を増山へ差向けたが、同所は「元来嶮難之地」で守る人数も多く堅固なため、攻撃を手控え陣を引いてしまった。そこで景虎自ら出陣し、城の近くに陣を布いて攻めようとしたところ、その夜半になって長職は武具乗馬などを打捨て城を落ち姿を消したという。長職は越後勢の帰陣後城を回復したとみられ、二年後の永禄五年には再び越後勢に呉福山ごふくやま(現富山市)を攻められ、降伏した(一〇月二七日「上杉輝虎書状」乙川忠栄次所蔵文書)。こののち長職は増山城を本城とするようになり、同一一年には当城を拠点に一向宗徒を攻撃している(二月二五日「下間証念書状」勝興寺文書)。元亀年間(一五七〇―七三)に入ると長職は没し、当城は一揆方(反上杉方)によって固められたとみられる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「増山城跡」の解説

ますやまじょうあと【増山城跡】


富山県砺波(となみ)市増山にある中世の城跡。県西部に広がる砺波平野の東縁、和田川右岸の標高約120mの丘陵上に立地する。この地は砺波、射水(いみず)、婦負(ねい)の3郡の境にあって、交通の要衝といえ、室町時代の守護代神保氏が歴代の居城とし、上洛をめざす越後長尾(上杉)氏がしばしば侵攻した。1576年(天正4)、上杉謙信によって増山城は落城し、謙信が没すると織田信長の勢力が進出し、信長配下の佐々成政(さっさなりまさ)の居城となった。その後、豊臣秀吉が越中に侵攻し、成政が降伏した後、前田利家の重臣・中川光重が城に入り、慶長年間(1596~1615年)ごろまで存続したと推測されている。城跡は、和田川を自然の環濠とし、南北約1.4km、東西0.9kmの広大な範囲に及ぶ。江戸時代の絵図で「二の丸」とされている郭(くるわ)は標高が最も高く、東西90m、南北50mの最大規模をもち、北東隅に櫓台(やぐらだい)があることから、ここが主郭と考えられる。この城跡は、戦国期から織豊期にかけて北陸地方の覇権争いにおいて重要な役割を果たし、富山県内屈指の規模を有する越中を代表する中世城郭である。2009年(平成21)に国の史跡に指定された。JR城端(じょうはな)線砺波駅から加越能バス「増山」下車、徒歩約10分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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