中番村(読み)なかばんむら

日本歴史地名大系 「中番村」の解説

中番村
なかばんむら

[現在地名]芦原町中番

竹田たけだ川南方の自然堤防上にあり、西方下番しもばん村と隣接する。正保の越前国絵図では、金津かなづ宿(現金津町)三国みくに(現三国町)を結ぶ交通路が当村内を通っている。当村と下番村の境には、河口かわぐち庄の総社とも伝える春日かすが神社があり、寛弘八年(一〇一一)越前国の押領使斎藤伊傅が奈良春日神社に神供料一〇〇石を献じた際、使を務めた徳丸男美佐崎の末裔と伝える徳丸家が当村にあり、奈良興福寺領河口本庄ほんじよう郷の中心であったように思われるが、記録中には当村の記載はない。

慶長六年(一六〇一)結城秀康が多賀谷三経に与えた知行宛行状(多賀谷文書)に「中番村」がみえる。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となるが、文政三年(一八二〇)再び福井藩領に戻っている。慶長三年の検地帳(徳丸家文書)が残り、総石高二〇〇四・二八二石、田方一一五町四反余・畑方三三町五反余(うち屋敷八反三畝余)で、荒田・荒畑が三七町五畝余(総面積の約二割五分)あり、名請人は四二人。


中番村
なかばんむら

[現在地名]粉河町中鞆淵なかともぶち

飯盛いいもり山の南に位置する広域の村で、中央を真国まくに(鞆淵川)が西流し、これに沿って高野山への街道が通る。北は飯盛山を境に麻生津おうづなか(現那賀町)、東は伊都いと上番かみばん村、西と南は下番しもばん村に接する。村の北の谷を流れるほん川と、南の米之郷こめのごう谷を流れる谷川が鞆淵八幡宮の近くで真国川に合流する。平安時代中期以降は鞆淵庄に含まれた。江戸時代も高野山領で、天保郷帳は中番村として高四三六石余を記すが、村内には京石きようし湯之本ゆのもと中野なかの本川ほんがわ岩滝いわたきの五集落がある。「続風土記」はそれぞれを一村として記している。

京石村は中番村の西端近く、下番村との境、高野山への街道沿いにあり、「続風土記」は「京石は経石なるへし、道の傍に四尺許なる没字碑あり、疑らくは法花経なとを書して埋め塚とせしならん」と記す。


中番村
なかばんむら

[現在地名]小野市中番町

下番村の東に位置し、集落は段丘上の微高地に形成される。慶長国絵図に「中ノ番村」とみえる。領主の変遷は寛永九年(一六三二)幕府領となるまでは門前もんぜん村と同じと推定され、同一三年小野藩領との相給地となる(正保郷帳など)正保郷帳では田方二八八石余・畑方一六石余、うち小野藩領分の高二八九石余。幕府領分は正徳二年(一七一二)以降大坂町奉行に補された旗本鈴木領となる(新修加東郡誌)


中番村
なかばんむら

[現在地名]有田市糸我いとが町中番

有田川南岸にあり熊野街道の渡河地で、北岸のみなみ村と結ぶ。「続風土記」に「旧中野番といふ、荘の中にありて西村須谷に対して此名あり」という。慶長検地高目録に「中野番村」とみえ村高四二〇石余、小物成一・二一八石。天保郷帳や「続風土記」では中番村と記すが、表記の変わった時期は不明。家数一〇〇、人数四七七(続風土記)。宮原組に所属。永享年中(一四二九―四一)に当村楯岩たていわの麓の神田かんだ峰に蜜柑が自生し結実、のち糸我・宮原みやはら二庄に分植したといい(続風土記)、天正年間(一五七三―九二)に肥後八代やつしろより蜜柑の小樹を伝えたといわれる伊藤孫右衛門は当村地蔵堂じぞうどうの人(紀州蜜柑伝来記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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