日本歴史地名大系 「中番村」の解説
中番村
なかばんむら
慶長六年(一六〇一)結城秀康が多賀谷三経に与えた知行宛行状(多賀谷文書)に「中番村」がみえる。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となるが、文政三年(一八二〇)再び福井藩領に戻っている。慶長三年の検地帳(徳丸家文書)が残り、総石高二〇〇四・二八二石、田方一一五町四反余・畑方三三町五反余(うち屋敷八反三畝余)で、荒田・荒畑が三七町五畝余(総面積の約二割五分)あり、名請人は四二人。
中番村
なかばんむら
京石村は中番村の西端近く、下番村との境、高野山への街道沿いにあり、「続風土記」は「京石は経石なるへし、道の傍に四尺許なる没字碑あり、疑らくは法花経なとを書して埋め塚とせしならん」と記す。
中番村
なかばんむら
中番村
なかばんむら
- 和歌山県:有田市
- 中番村
有田川南岸にあり熊野街道の渡河地で、北岸の
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報