中筋村(読み)なかすじむら

日本歴史地名大系 「中筋村」の解説

中筋村
なかすじむら

[現在地名]堺市南花田口みなみはなだぐち町一―二丁・北瓦きたかわら町一―二丁・中瓦なかかわら町一―二丁・南瓦みなみかわら町・しん町・翁橋おきなばし町一―二丁・南安井みなみやすい町一―六丁・中安井なかやすい町一―六丁・北安井きたやすい町・一条通いちじようどおり三国みくに丘御幸通おかみゆきどおり榎元えのきもと町一―六丁・南三国みなみみくにおか町一―六丁・中三国なかみくにおか町一―六丁・北三国きたみくにおか町一―七丁・向陵西こうりようにし町一―三丁・向陵中こうりようなか町一丁・同三丁・同五丁

堺町の東側、北庄きたしよう村の南にある。西側ほぼ中央は堺町から西高野街道・竹内たけのうち街道への出口にあたり、村内西部で南に折れた街道は南の舳松へのまつ村境を南東に延び途中で両街道に分岐する。堺廻り四ヵ村の一で、大鳥郡に属する。


中筋村
なかすじむら

[現在地名]高砂市中筋一―五丁目・春日野町かすがのちよう時光寺町じこうじちよう伊保町中筋いほちようなかすじ松陽しようよう二―三丁目

魚崎うおざき村の北西、竜山たつやま丘陵の西に位置し、あま川左岸の平地に立地する。印南いなみ郡に属した。惣社走馬之記(智恵袋)によると、大永年中(一五二一―二八)の毎年五月に実施される播磨国惣社(現姫路市の射楯兵主神社)の走馬神事に、中筋に居住する別所氏家人曾根内記が参加している。天正一六年(一五八八)一二月二五日の伊保庄指出案(曾根文書)には六二三石三斗が当村分として記載されている。

慶長国絵図に中筋とみえる。江戸時代を通じて姫路藩領。正保郷帳では田方八〇二石余・畑方一〇二石余、ほかに西阿弥陀にしあみだ村時光寺領一〇石がある。天保郷帳では高一千一〇三石余。明和九年(一七七二)の村明細帳控(船津家文書)では田方七町八反余・新畑二町一反余、小物成として犬米・草藁銀・請林運上がある。


中筋村
なかすじむら

[現在地名]宝塚市中筋一―九丁目・中筋山手なかすじやまて一―七丁目・中山台なかやまだい二丁目・中山桜台なかやまさくらだい一―二丁目・同五―六丁目・中山五月台なかやまさつきだい一―七丁目・今里町いまさとちよう・中筋

川辺かわべ郡に属し、米谷まいたに村の東に位置する。文禄三年(一五九四)浅野長吉の検地で高六一七石余、田方三一町二反余・畠屋敷方二二町四反余(同年九月日「中村御検地帳」小池家文書)。集落は南北に分れ、慶長国絵図では北に小池こいけ村、南に中筋村の二集落が描かれる。元禄郷帳では中筋上村とみえ「古は中筋」と注記。元禄国絵図(内閣文庫蔵)では中筋下村を「中筋上村之内」とする。正徳三年(一七一三)に新検地が行われ(天保一四年「村明細帳」小池家文書)、享保二〇年(一七三五)摂河泉石高調では高六四一石余。慶長三年(一五九八)旗本渡辺領になり幕末に至る(宝塚市史)


中筋村
なかすじむら

[現在地名]大内町中筋

与田よだ川中流左岸の平地部の村。東は与田川で川東かわひがし村と境し、南は水主みずし村に接する。明治初期の野取図には村内五反地のあたりに比較的整然とした坪の区画が認められ、条里が施行されていたことがわかる(大内町史)。また古代南海道が東西に通じていたと推定される。鎌倉期から南北朝期にかけて虚空蔵こくぞう(与田寺)が人々の尊崇を集めた。京都北野社一切経(大報恩寺蔵)の応永一九年(一四一二)書写の大般若経奥書に「大内郡与田虚空蔵院」とみえ、当地が与田郷に含まれていたことが知られる。


中筋村
なかすじむら

[現在地名]緑町広田中筋ひろたなかすじ中条中筋ちゆうじようなかすじ

みや村の南、初尾はつお川東岸にある。福良ふくら街道が北東から南西へ通る。正保国絵図に中筋村とあり、高四七七石余。ほかに中筋村の内として初尾村が記されるが、高の記載はない。天保郷帳では高九五〇石余。元禄五年(一六九二)には物部組(「庄屋組及庄屋名簿」岩村家文書)、近世後期には中筋組に属し、当村庄屋が組頭庄屋を兼ねた(反別戸数取調書)


中筋村
なかすじむら

[現在地名]和歌山市中筋日延なかすじひのべ

名草なくさ郡に属し、さと村の北東にある。中筋村の南、里村の南東に枝郷日延村がある。大永四年(一五二四)二月一九日付の根来寺威徳院泉観房下地売渡状(国立史料館蔵名草郡古文書)に「紀伊国那賀郡中筋庄」とみえ、当時は那賀なが郡に含まれている。「続風土記」も古くは那賀郡に属したというと記し、中世から近世にかけて郡界の移動があったと思われる。なお中筋庄の伝領に関しては明らかでないが、東隣の地にある根来ねごろ(現那賀郡岩出町)に荘内の田地が所有されており、その買主が隣接する山崎やまさき黒木くろき(現同上)の刑部大夫であることが知られる。


中筋村
なかすじむら

[現在地名]香芝町大字上中かみなか上牧かんまき町大字中筋出作なかすじしゆつさく

上里かみさと村南に所在。近世初期は上里村の内。元和五年(一六一九)以降郡山藩(松平忠明)領。慶安三年(一六五〇)以前に上里村から分離し、さらに中筋村出作を分離した。中筋村出作の分離は承応(一六五二―五五)頃までさかのぼることができる。

享保九年(一七二四)の和州御領郷鑑(柳沢文庫)によると反別二六町三畝一九歩、うち一四町六反九畝一〇歩(二八四・八四七石)は「家居無之中筋村出屋敷」で、家数七四、人数三八三(男一八八、女一九五)、うち氏神巫女二、職人四(大工二、紺屋二)、旅籠屋一、油屋一、木綿売一、雑穀売一、牛七とみえる。属邑に三角みかどがある。


中筋村
なかすじむら

[現在地名]春江町中筋・中筋大手なかすじおおて中筋春日なかすじかすが中筋北浦なかすじきたうら中筋高田なかすじたかだ

正蓮花しようれんげ村の東にあり、南は寄安よりやす村。慶長六年(一六〇一)九月九日付の山川菊松宛結城秀康知行宛行状(山川家文書)に、「三国領中筋村」とみえる。正保郷帳によれば田方一千一〇四石余・畠方三〇石。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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