上里村
かみざとむら
[現在地名]西京区大原野上里〈男鹿町・勝山町・北ノ町・鳥見町・南ノ町・紅葉町〉・大原野〈石見町・東野町〉・大枝南福西町一丁目・同二丁目の大部分・同三丁目・大原野〈西境谷町一丁目及び二丁目それぞれの一部・同三丁目・西竹の里町一丁目・同二丁目・東境谷町一丁目及び二丁目それぞれの大部分・同三丁目・東竹の里町一丁目―四丁目〉
善峰川が小畑川に合流する付近に位置。東は長野新田、寺戸(現向日市)、南は上植野・井内(現向日市)、西は大原野・上羽・灰方、北を大原野・塚原の各村と接する。
中世摂関家領小塩庄の一部をなし、大永二年(一五二二)の山城国小塩庄帳(九条家文書)表紙裏書の同庄域内の村名を書付けた部分に「井の内 かミ里今里」等とあるのが初見。しかし、近世の村域と一致するか否かは不明である。今里(現長岡京市今里)に対する上里であったようである。
元禄一三年(一七〇〇)の山城国郷帳では「石見村共上里村」とあり、別に石見村が付属していたような記載になっている。
上里村
かみさとむら
[現在地名]香芝町大字上中
葛下川西岸に所在。南は中筋村。慶長郷帳には「上黒村」とみえ村高二〇七五・一石、幕府領(代官大久保長安)。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領となる。元禄郷帳では上里村・中筋村・高村・今市村・今泉村の五ヵ村に分れているが、「寛文朱印留」には一村の上里村となっているので、これらの正式な分村は寛文四年(一六六四)から元禄一五年(一七〇二)の間と考えられる。しかし、慶安三年(一六五〇)に関屋村民が籏尾池のよき(樋門)を切った際の「池ノよき切りニ付一札」(北今市区有文書)に中筋村・今市村・高村・西村(今泉村)の名がすでに現れている。
上里村
かみざとむら
[現在地名]海山町上里
河内村の南方、船津川上流の本流大河内川が支流大舟川と合流する辺りにある。熊野街道は中里村より当村を経て馬瀬村へ通じる。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「上里村」と記され、家数六一。江戸時代初期に相賀組に属する。鳥居崎の新田開発は寛永一七年(一六四〇)に行われ、四年後には一一町歩を開いたという。寛政五年(一七九三)の大差出帳(同蔵)に「鳥居崎村之儀寛永十七辰年より上里村に出来仕」とあり、新田開発着手と同時に分村、文政年間(一八一八―三〇)に合併した。寛政五年の大差出帳では上里村・鳥居崎村に分れ、上里村家数三〇、人数二三二、牛五、馬四、本田畑三九三石余(三三町歩余)、新田畑四七石余(九町四反歩余)で、鳥居崎村は家数一五、人数七四、牛七、馬四、新田畑一〇七石余(一二町八反歩余)とある。
上里村
あがりむら
[現在地名]三次市三次町
三次盆地の中心地、現三次・十日市両町一帯は、中世三吉郷(村)あるいは三吉原村、さらには単に原村とよんだ。上里村は「芸藩通志」に「此村もと原村の内にて、三吉家士上里越後の所持たる故に別村とし、其氏を以て村の名とす」とあるように、原村から分村して成立。三次郡に属した。「国郡志下調書出帳」には天正年間(一五七三―九二)三吉広隆(広高)の家臣上里越後が、比熊山麓の積山(現尾関山)に拠り、諸人これを上里御役所とよんだのが村名となったとある。
上里村
ういーざとうむら
[現在地名]糸満市束里
束辺名村の南に位置し、南は海に面する。ウィーザトゥ村とよぶ。「おもろさうし」巻二〇の二〇に「一 せやるくにおそいきや(霊力ある国襲い〔神女〕が)/おゑさともり おれわちへ(上里森に降りたまい)/もゝとあかり ふみあかて ちよわれ(百年までセヂを高めてましませ)/又 けう有くにおそいきや(霊力ある国襲いが)/又 けおのよかるひに(今日の良き日に)/けおのきやきやろひに(今日の輝く日に)/又 なおりよは さたけて(直り世〔豊年〕を先駆けにして)/あまへよは さたけて(嬉しい世を先駆けにして)」とある。
上里村
かみざとむら
[現在地名]南種子町茎永
茎永村の北西にあり、北東は平山村、西は中之村。「懐中島記」に「御前帳加茎永村」とあるように茎永村に組込まれる場合も多く、郷村帳類などの諸史料でも記載されたり、されなかったりする。種子島記によると村域は東西一二町四六間・南北二二町三〇間、「最枝村無之御座候」とあるので、複数の里をもたない村であった。元禄二年(一六八九)の「懐中島記」では高一六三石余、男女八九、うち給人二三、牛馬三〇。
上里村
かみざとむら
[現在地名]豊玉町田 上里
田村の東にある同村枝郷。元禄一六年(一七〇三)の対州郷村帳では田村のうちであるが、肝入が置かれ、禅宗の種福寺(現廃寺)があった。天保郷帳では田村と別に上里村が記される。波自采女の塚という古代の孝女の墓地と伝える跡がある。「続日本紀」神護景雲二年(七六八)二月五日条に「対馬嶋上県郡人高橋連波自采女」とみえ、波自采女が夫の亡きあとに志を変えず、死んだ父の墓の傍らに庵を結び、毎日斎食をし、孝義を尽したとして終身租を免じられたという。
上里村
かみさとむら
[現在地名]岡崎市上里
北は矢作川を隔てて宗定村(現豊田市)と対し、東は井ノ口村、南は藪田村、西は大門村と接する。寛永郷帳高三五八石余で、うち一二一石余は伊賀八幡宮領、四石余は本多伊勢守領で残りは幕府領。
上里村
あがりむら
[現在地名]福井市上里町・文京四丁目
福井城下の西北に位置し、東は牧野島村、北は八島村に接する。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では「阿豆布西之郷」の地に含まれていたと思われる。村名は正保郷帳にみえ、田方三六六石余・畠方九五石余。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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