丹生寺跡(読み)たんじようじあと

日本歴史地名大系 「丹生寺跡」の解説

丹生寺跡
たんじようじあと

[現在地名]北区山田町坂本

丹生山頂にあった寺院で、近世には明要みようよう寺と称し山城醍醐寺三宝さんぼう院末であった(安政三年「諸堂修復勧進帳」田中家文書)。「峯相記」に「丹生寺観音」とみえ、法道の建立。文亀三年(一五〇三)三月日付の沙門祐賢勧進(丹生神社文書)によると、丹生山は千手・十一面両観音の霊地、山王権現利生の奇峰で、欽明天皇のとき百済から渡来した童男行者の開創という。正応二年(一二八九)八月二三日の一遍没後、弟子真教らは一遍の後を追って臨終しようとして当山に籠ったといわれる(「遊行上人縁起絵」真光寺蔵)

南北朝期、西摂山地の山岳寺院の多くが城として利用されていったように当寺も南朝方の拠点となり、建武三年(一三三六)一〇月日付の島津忠兼軍忠状(越前島津家文書)の「今月廿日於丹生寺合戦」から、暦応三年(一三四〇)「四月二日、摂津国丹生山田丹生寺之凶徒御退治」まで(年月日未詳「肥塚範重軍忠状案」肥塚家蔵広峯神社文書)、数回にわたって北朝方の攻撃を受けている。


丹生寺跡
にゆうでらあと

[現在地名]松阪市丹生寺町 奥・奥屋敷

浄泉じようせん寺の北裏、標高約六〇メートルの丘陵の北東麓には平坦面が形成され、東側水田面との比高は約五メートルある。寺跡は古瓦の散布からこの平坦面全域に広がっていると推定され、東西二五〇メートル、南北一二五メートルにも及ぶ。南東より里道が寺跡を縦断するように通り、道の両側に整地された方形台地状の区画および低い土塁が残る。かつては推定地域の東端部に礎石があった(三重県古瓦図録)というが、今は行方不明。出土古瓦は多数あり、軒平瓦と軒丸瓦についてみると、ともに四型式が認められる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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