日本歴史地名大系 「久枝村」の解説
久枝村
くしむら
現富山町沿岸部の最北に位置し、北は
天正一八年(一五九〇)一〇月の書上控(田代家文書)に村名がみえ、慶長二年(一五九七)一〇月の検地帳(久枝区有文書、以下断らない限り同文書)によると上田一七町二反余(一石三斗代。以下二斗下り)・中田二町三反余・下田八反余、上畑三町六反余(一石代。以下二斗下り)・中畑三町余・下畑六町五反余、居屋敷一町六反余(一石代)、山畑二反余(五斗代)・荒畑一町余(同上)、反別計三六町五反余・分米高三八〇石余。名請人は約四〇人(前欠のため正確な人数は不明)、うち寺一(蓮台寺)・堂一(清浄庵)・僧侶二。同年の安房国検地高目録によると里見氏給人領。元和元年(一六一五)勝山一万石は内藤政長に与えられており(譜牒余録)、当村も含まれていたとみられる。同八年同氏は移封となり、同年から翌年までと寛永三年(一六二六)から六年までの間は勝山藩領。以後幕府領であったが、同一四年佐倉藩領となり、万治三年(一六六〇)に至る。翌寛文元年(一六六一)越前小浜藩領となり、同八年同藩主酒井忠直から一万石を分知された酒井忠国領(勝山藩領)となる。
久枝村
ひさえだむら
- 高知県:南国市
- 久枝村
天正一六年(一五八八)の久枝村地検帳によれば検地面積は六一町三反二五代五歩、うち畠が一〇町五反三歩でほかは田と屋敷。屋敷数九七、うち居屋敷五〇。旧勢力の名残を示す「分」「名」の記載が多く、ほかは長宗我部氏家臣の給地となっている。旧在地領主志賀分・茅原分として把握された土地が「香宗様御分」となり、この「分」はさらに給地・扣地・作職地として給人・農民に権利が与えられている。
久枝村
ひさえだむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報