久枝村(読み)くしむら

日本歴史地名大系 「久枝村」の解説

久枝村
くしむら

[現在地名]富山町久枝

現富山町沿岸部の最北に位置し、北は天満てんま(一四三・四メートル)を介して岩井袋いわいぶくろ(現鋸南町)、東は市部いちぶ村・竹内たけのうち村、南は岩井いわい川を境に不入斗いりやまず村に接し、西の海辺は砂浜が続く。江戸まで海路一八里余。岩井袋村とともに一帯は古代の平群へぐり石井いわい(和名抄)に含まれたとみられ、中世にも岩井と称された。そのため岩井久枝村ともよばれ、また村の南部の浜方を新宿しんじゆくといい、久枝新宿村と記す史料もある(久枝区有文書)

天正一八年(一五九〇)一〇月の書上控(田代家文書)に村名がみえ、慶長二年(一五九七)一〇月の検地帳(久枝区有文書、以下断らない限り同文書)によると上田一七町二反余(一石三斗代。以下二斗下り)・中田二町三反余・下田八反余、上畑三町六反余(一石代。以下二斗下り)・中畑三町余・下畑六町五反余、居屋敷一町六反余(一石代)、山畑二反余(五斗代)・荒畑一町余(同上)、反別計三六町五反余・分米高三八〇石余。名請人は約四〇人(前欠のため正確な人数は不明)、うち寺一(蓮台寺)・堂一(清浄庵)・僧侶二。同年の安房国検地高目録によると里見氏給人領。元和元年(一六一五)勝山一万石は内藤政長に与えられており(譜牒余録)、当村も含まれていたとみられる。同八年同氏は移封となり、同年から翌年までと寛永三年(一六二六)から六年までの間は勝山藩領。以後幕府領であったが、同一四年佐倉藩領となり、万治三年(一六六〇)に至る。翌寛文元年(一六六一)越前小浜藩領となり、同八年同藩主酒井忠直から一万石を分知された酒井忠国領(勝山藩領)となる。


久枝村
ひさえだむら

[現在地名]南国市久枝

物部ものべ川の河口右岸に位置する農漁村で、南は土佐湾を望む。香美郡に属し、「土佐州郡志」は「去府城東三里、東限物部川、西限下島村、南限海涯、北限物部村、東西六町余南北十三町」「其地砂土、里人網魚」と記す。村域は物部川の扇状地で、中ほどに高さ二八・二メートルの室岡むろおかという小山があるほかは平坦地である。東を物部川が流れ土佐湾に流入し、また村の南は二〇〇メートル幅の砂丘(浜堤)が東西に走り、その北側の三角洲性低地を悪水川のまえ川が下島しもじま村から東流して物部川に合流。村の中央をしも街道が東西に通り、下島村から当村を経て久枝渡船場で物部川を渡って吉原よしはら(現香美郡吉川村)へ至る。

天正一六年(一五八八)の久枝村地検帳によれば検地面積は六一町三反二五代五歩、うち畠が一〇町五反三歩でほかは田と屋敷。屋敷数九七、うち居屋敷五〇。旧勢力の名残を示す「分」「名」の記載が多く、ほかは長宗我部氏家臣の給地となっている。旧在地領主志賀分・茅原分として把握された土地が「香宗様御分」となり、この「分」はさらに給地・扣地・作職地として給人・農民に権利が与えられている。


久枝村
ひさえだむら

[現在地名]宇和町久枝

宇和盆地南部の宇和川に沿う村。北は永長ながおさ村、南は神領じんりよう村に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)宇和郡の項に「久枝村 茅山有、日損所」とある。

太閤検地の石高は七〇四石二斗、耕地面積の比率は田八八パーセント、畑一二パーセントであった。寛文検地では石高が八パーセント減少し、田七〇パーセント、畑三〇パーセントと変化している。「墅截」による村柄は「上ノ中」、耕地は田が「上ノ中」、畑が「下」、水掛りは「吉」である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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