二之町(読み)にのまち

日本歴史地名大系 「二之町」の解説

二之町
にのまち

[現在地名]高山市上二之町かみにのまち下二之町しもにのまち

しろ山の北側、みや川と江名子えなこ川に挟まれた平坦地の中央に位置する。南北に六町一六間の細長い町域を有し(寛政元年「高山三町村覚帳」高山市立郷土館蔵)、中ほどを東西に横切る安川やすかわ通で二分される。二之町村に所属し、東は一之町、西は三之町。金森長近が天正一六年(一五八八)城下町経営にあたって造った三筋の町人町のうちの二番にばん町が、のち二之町となった。元禄七年(一六九四)検地によれば屋敷三町七反余・分米三七石八斗余、屋敷持一九三・家数二二二(同八年「二之町村屋舗検地帳」高山市立郷土館蔵)。同一〇年には造酒屋二八軒があった(「飛騨国酒株名前帳」大野郡史)

金森氏の城下経営の当初より町人町として成立し多くの商家が軒を並べたが、筆頭は大坂屋七左衛門である。大坂屋の出自は明らかでないが、すでに三木氏の時代から高山で商いを営んでいたと伝え、安永(一七七二―八一)頃には越中加賀への大名貸し・他領貸しを行うまでになった。


二之町
にのまち

[現在地名]会津若松市大町おおまち一丁目・中央ちゆうおう一丁目・馬場町ばばまち上町うわまち

一之町の北に並び、上二之町は中六日なかむいか町の角より馬場町まで、長さ三町二〇間余・幅四間余、家数五一、下二之町は馬場町より西の方大町に至る、長さ二町三一間・幅四間余、家数五六(新編会津風土記)。角田家はこの町の検断で、先祖は角田弾正藤原秀義といい、延元二年(一三三七)一一月越前黒丸くろまる(現福井市)が落城したときに会津に来たという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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