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五十公野城 いじみのじょう

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日本の城がわかる事典の解説

いじみのじょう【五十公野城】

新潟県新発田市にあった平山城(ひらやまじろ)。新発田氏の一族である五十公野氏により鎌倉時代に築城されたともいわれるが、築城年代は不明である。戦国時代末期の1578年(天正6)、急逝した上杉謙信の跡継ぎをめぐり、上杉景勝上杉景虎の2人の養子が争った(御館の乱)。このころの五十公野城主は、新発田城主の新発田長敦の弟の五十公野治長(のちの新発田重家)で、謙信の小田原攻めや第四次川中島合戦で勇名を馳せた剛将だった。治長(重家)は御館の乱でも、兄長敦とともに景勝方に与して活躍した。その後、長敦が死去したため、治長(重家)は新発田姓に復姓し新発田氏の家督を相続したが、御館の乱での恩賞で上杉景勝への不満を募らせていたといわれる。1581年(天正9)、重家は景勝から離反して蜂起し、新潟津を占領し織田信長や会津の葦名義広などと通じて上杉氏の支配から独立を図ろうとして足掛け7年にも及ぶ戦闘を続けた。景勝は信長の軍勢と重家に挟撃される形となり上杉氏存続の危機に直面したが、本能寺の変で信長が死去したことから危機を脱する。その後、景勝は重家への攻勢を本格化させたが、戦巧者の重家との戦いは容易ではなく苦戦を強いられた。その後、羽柴(豊臣)秀吉が天下を掌握すると、形勢は一転して景勝優位になった。こうした中、1587年(天正15)、景勝は重家討伐の軍旅を催す。景勝は蘆名氏から重家への物資の補給路を断ったうえで五十公野城と新発田城を攻撃した。まず、同年、重家のあと五十公野氏を継いだ五十公野(長沢)道如斎(信宗)が守っていた五十公野城が直江兼続藤田信吉ら上杉方に攻撃されて、内応者を出したことで陥落し、道如斎は自刃した。その後も重家は新発田城で抵抗を続け、五十公野城落城から5日後に合戦に及び討ち死にしたといわれる。この戦いののち、五十公野城は新発田城とともに上杉氏により棄却された。その後、上杉氏が会津に転封になると、代わって越後に入封した堀秀治与力の溝口秀勝が廃墟となっていた新発田城を再興したが、その際、五十公野城跡は新発田城が完成するまでの居所として使われた。現在、城跡は公園となっている。城跡の一部は新発田市立東中学校の敷地や遊歩道になっているが、郭、土塁、虎口、空堀など本丸周辺の遺構は比較的よい状態で現存する。本丸跡には城址碑が建っている。また、溝口秀勝が新発田城築城前に居所とした跡地が五十公野茶屋として残っている。JR羽越・白新線新発田駅からバス、または同駅から徒歩約30分。老人福祉センター金蘭荘近くに本丸跡に至る登山口がある。

出典|講談社
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