五十沢村(読み)いさざわむら

日本歴史地名大系 「五十沢村」の解説

五十沢村
いさざわむら

[現在地名]梁川町五十沢

東大枝ひがしおおえだ村の東に位置し、阿武隈川の南対岸は舟生ふにゆう村、北は刈田かつた越河こすごう(現宮城県白石市)伊具いぐ耕野こうや(現同県丸森町)梁川村から伊具郡丸森まるもり(現丸森町)に至る街道に沿って東西に細長い。村名は「全村山ニシテ沢ノ数多ク大凡五十許有ル」ことに由来するといわれ(信達二郡村誌)人家集落の多くは山腹の比較的高位の場所にあった。村内で西根にしね堰の末端が阿武隈川に流れ込むが、水利の便は芳しくなく、しばしば旱損にあった。大永五年(一五二五)一一月一一日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)によれば、田手石見の太方(未亡人)が五十沢氏から購入した伊達郡西根「いさゝハのかう」のうち、かきの木内在家・同田畠屋敷などを安堵されている。


五十沢村
いさざわむら

[現在地名]尾花沢市五十沢、村山市五十沢

五十沢川の上流に位置し、北は朧気おぼろけ村、西は今宿いまじゆく(現北村山郡大石田町)北西五十沢下流、南北に走る羽州街道に沿って枝郷の横内よこうちがある。元和八年(一六二二)山形藩領となり、寛永二〇年(一六四三)からは幕府領。安政二年(一八五五)松前藩預地となる。寛永一三年の保科氏領知目録に村名がみえ、高五一四石余。正保郷帳によれば田方四八五石余・畑方二八石余。宝暦一一年(一七六一)の御巡見様御案内覚帳(二藤部文書)では高六六三石余、家数六九・人数四二二、馬三三、御林は前森山ほか九ヵ所にあり計三四二町余、木数八千一六一、松・楢・栗などの小木三千三九二本、土橋二・溜池二。


五十沢村
いかざわむら

[現在地名]三川村内川うちかわ 五十沢

新谷あらや川右岸にあり、西は岡沢おかざわ村、北は細越ほそごえ村。東方京瀬きようのせ(現津川町)との境に白髭しらひげ山、西に二つの峰をもった両留りようとめ山があり、「新編会津風土記」にそれぞれ女両留めりようとめ男両留おりようとめというとある。文禄三年(一五九四)七月の蒲生氏高目録帳(内閣文庫蔵)に「いか沢 百八十九石八斗八升」とある。元禄郷帳では五十沢村とあり一八九石八斗余。「新編会津風土記」には家数は二五・一八と二つに分けて記され、東を流れる新谷川では鮎・鮭・鱒などをとるとある。綱木つなぎ村と山論があり元和二年(一六一六)裁許状が同書に記されている。同六年漆木役として七七本四分(津川旧記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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