五番町(読み)ごばんちよう

日本歴史地名大系 「五番町」の解説

五番町
ごばんちよう

[現在地名]千代田区一番町いちばんちよう

明治五年(一八七二)堀端一番町ほりばたいちばんちよう通から麹町三丁目横町こうじまちさんちようめよこちよう通の間の旧武家地を画して成立。東は内堀に限られ、西は麹町元園こうじまちもとその町一丁目と上二番かみにばん町、南は麹町元園町一丁目、北は一番町。江戸時代初期からの武家地で、寛永江戸図の右上方、「かうじ町口」(半蔵御門)枡形の右側に八軒の武家屋敷が並ぶ。のちの一番町との間に大きな掘割があったが(正保江戸絵図・明暦江戸大絵図)、寛文期(一六六一―七三)までの間に埋立てられた(寛文新板江戸絵図)。明暦大火の翌年の万治元年(一六五八)には半蔵はんぞう御門外堀端に定火消の役屋敷が設けられている。元禄一〇年(一六九七)半蔵御門外から飯田いいだ町辺りまで広場となり、翌年には堀端通が開通し、薬園が設置され、麹町二丁目裏は町屋となった。


五番町
ごばんまち

[現在地名]富山市五番町

古鍛冶ふるかじ町の東に続き、東西に延びる両側町。東は門前もんぜん町となるが、同町は南側のみの片側町で、北側は当町の町並であった。本町のうち。寛文六年(一六六六)の御調理富山絵図にみえ前田利次による町割当初からの町。富山城の大手から東に順に一番町・二番町・三番町とつけ、四の字を忌み、次を五番町としたもの。安永八年(一七七九)の本家数三四・貸家数五七で、四丁目まであった(「町方旧記抜書」前田家文書)。天保一二年(一八四一)の富山町方旧事調理では竈数一〇二、男二一六・女二二四。


五番町
ごばんちよう

上京区仁和寺街道千本西入

町の中央を東西に仁和寺にんなじ街道が通る。平安京大内裏「大蔵省」から「掃部」にかけての跡地(「拾芥抄」宮城指図)

宝暦四年(一七五四)再版名所手引京図鑑綱目には「五ばん丁」とあり、町名由来は一番町と同じである。宝暦一二年刊「京町鑑」は町の北を「相生町」と記す。相生町は天保二年(一八三一)改正京町絵図細見大成には西隣の四番町の東に記され、明和四年(一七六七)国生こくしよう寺境内に借地して開かれた「三ツ石町」(藪ノ辻子)とともに明治二年(一八六九)二月、四番町に合併された(坊目誌)


五番町
ごばんまち

[現在地名]大野市ほん町・もと町・にしき町・明倫めいりん

五番通の両側町。道幅五間。中央に用水が通り、七間しちけん通より南は美濃街道。東はてら町・比丘尼びくに町、西は四番しばん町、南はよこ町に接する。寛保三年(一七四三)の町絵図(「奥越史料」所収)によれば、高五九・四三五三石で、家数六九(うち寺二)。文久二年(一八六二)五月の人別寄帳控(布川家文書)では男二七二・女二六五、家数七三(うち本家六九・明屋敷一・清滝の地名子三)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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