井野村(読み)いのむら

日本歴史地名大系 「井野村」の解説

井野村
いのむら

[現在地名]三隅町井野、浜田市井野町

室谷むろだに村の南に位置する山間の村で、井川いかわ川および同川の支流が南流する。西は蘆谷あしだに村・河内こうち村、南は黒沢くろさわ村、東は櫟田原いちいたばら(現浜田市)野坂のさか村・西之郷にしのごう(現弥栄村)今明いまあけ小原こばら殿河内とのごうち大谷おおだに周布地すふじの五地区に分れ、そのなかに久根くね郷・ユノ郷・久瀬くぜ郷・野地のじ郷の地名があり、ほかに市場いちば諸谷もろだに羽原はばら(現浜田市)などの集落がある。

中世は井村いのむら郷とよばれた。江戸時代初期は幕府領(石見銀山領)であったが、元和三年(一六一七)津和野藩領となり幕末に至る。同年の竹村丹後守引渡証文(亀井家記稿本)に村名がみえ、高一千七六九石余。古高も同高で、寛永一四年(一六三七)の検地高三千二五一石余(明治四年万手鑑)。寛永検地の時一村一組の井野村組が設けられ、宝暦二年(一七五二)の井野村組蔵元役之様子申上覚写(的場家文書)には、「井野村組先年より一庄屋之村故外組並無御座蔵本役被仰付」とあり、今明・小原・殿河内・大谷・周布地の五ヵ所に区分されている。井野村組の代官所は下今明にあったと伝えられ、野地庄屋(三浦氏)の墓所の上に代官やその家族の墓がある。


井野村
いのむら

[現在地名]取手市井野一―三丁目など

北相馬台地東端に位置し、北は桑原くわばら村。「取手町郷土史資料集」によれば江戸初期には近隣の台宿だいしゆく村・青柳あおやなぎ村・吉田よしだ村・桑原村・長兵衛ちようべえ新田および毛有けあり(現北相馬郡藤代町)とともに「井野七ヶ村」といわれた。寛永一一年(一六三四)の検地による村高は一千五五九石余。「寛文朱印留」によれば下総佐倉藩領で、「取手市史」によれば享保三年(一七一八)に下総関宿藩領となる。同一〇年の相馬郡守谷領人別家数留帳(斎藤一彦文書)によれば家数五七・人口三四九。文政一〇年(一八二七)の相馬郡地頭并村高調帳(長塚家文書)によると旗本津田鉄太郎知行地九六一石余、関宿藩領五五六石余、天領六六石余。


井野村
いのむら

[現在地名]佐倉市井野・井野町・みやだい一―五丁目・ユーカリが丘ゆーかりがおか二―四丁目・同六―七丁目・西志津にししづ一―四丁目

上座じようざ村の西に位置し、北は小竹おだけ村・青菅あおすげ村、東は上志津村。南部を成田道が東西に通る。寛文期(一六六一―七三)と推定される国絵図に村名がみえる。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高二〇〇石、佐倉藩領で、以後幕末まで同じ。寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚によれば高三〇〇石余(うち人馬役御免五〇石余)、夫役永六〇〇文・野山銭金二両・野銭永八八〇文。


井野村
いのむら

[現在地名]富山町井野

二部にぶ村の東、岩井いわい川右岸に位置する。天正一八年(一五九〇)一〇月七日の増田長盛充行状(高野山西門院文書)に「いの村」とみえ、村内の京升七四石(本銭三七貫文)の地が清澄せいちよう(現天津小湊町)に与えられている。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に伊野村とみえ、高一五五石余、うち田方八四石余。同一一年の里見家分限帳には井野村とあり、高一五五石余はすべて清澄寺領。同一九年の里見氏改易によりいったん上知されたが、元和二年(一六一六)再び同寺朱印地となり幕末に至る(清澄寺文書)正保郷帳でも同高。寛政五年(一七九三)の村明細帳(井野区有文書)によれば元和四年に検地があり、高一七五石余となる。


井野村
いのむら

[現在地名]高崎市井野町

東南流する井野川左岸に位置する。場所によっては泥炭層が広がり、湧水池もある。北は中尾なかお村、東は日高ひだか村、南は川を挟んで貝沢かいざわ村。猪野村(天保郷帳など)とも記される。字天神てんじんからは弥生後期の土器片とともに泥炭地層から木器が出土している。字かみの湧水池からも同期の土器が発見され、同地一帯の低湿地帯では初期稲作が行われたと推測される。明応五年(一四九六)三月晦日付印良坊快助旦那売券(熊野那智大社文書)徳蔵とくぞう(現前橋市)の檀那場として「井野」がみえる。


井野村
いのむら

[現在地名]宇美町井野・ひばりがおか一―三丁目・宇美三丁目・貴船きふね三丁目・炭焼すみやき

伊野村とも記す(正保郷帳)。東は宇美村、南は御笠みかさ乙金おとがな(現大野城市)、南西は同郡なか(現同上)。井野川が流れ、村の北西方で宇美川に合流する。元禄国絵図に当村のうちとして赤出あかいで村が載る。慶長七年(一六〇二)の検地高六一〇石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高八二八石余、うち畠六二石余。


井野村
いのむら

[現在地名]多古町喜多きた

大原おおはら村の北に位置し、多古橋たこばし川の右岸に突き出た舌状の丘陵地に立地する。寛永八年(一六三一)の井野村明細帳(柏熊区有文書)によると、高二四九石余、反別は田一三町一反余・畑五町五反余。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分でも同高で、多古藩領。以後幕末まで同藩領。


井野村
いのむら

[現在地名]大野町片島かたしま

田尾たお村の北にある。正保郷帳に村名がみえ、田高一二石余・畑高二〇石余、井田いだ郷に属し、茅山有と注記される。旧高旧領取調帳では高四六石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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