仁田村(読み)につたむら

日本歴史地名大系 「仁田村」の解説

仁田村
につたむら

[現在地名]函南町仁田

北は大土肥おおどい村、南は柿沢かきさわ川を挟んで長崎ながさき(現韮山町)。中世仁田郷の遺称地。延宝四年(一六七六)の伊豆国中拾組高寄帳(石橋家文書)では高九八〇石余。江戸時代初頭は幕府領、元禄一一年(一六九八)旗本松前・宮崎・金田・大沢・西尾・藤方・戸田・佐久間の八家領となり幕末まで続く(「韮山町史」など)。用水は来光らいこう川から引いたみぞ用水から分水し、延享五年(一七四八)の争論以後当村は一番・二番・七番溝を使用することになった(竹沢家文書)。助郷は間宮まみや村に同じ。村内には面積八畝歩の仁田塘があった(増訂豆州志稿)。馬士がいて西にし浦・うち浦の魚荷を田中たなか山越でひがし浦へ運搬した(文政八年「入会山松明法度不調法詫書」稲村家文書、「伊東市史」)


仁田村
にたむら

[現在地名]川西町仁田

新町あらまち新田の北、西は庄司しようじ(三三五メートル)を隔てて仙田せんだ村、北は野口のぐち村。南北に信州道が通る。東方信濃川岸に下原したはら新田の集落がある。「中魚沼郡誌」には、かつて小沢おざわ村と称し、永観年中(九八三―九八五)には民戸五があり、みな猟を業とするとの里伝を記す。仁田の地名は「新編会津風土記」に「何の頃にか仁田荘司と云ふ者此地に住せし故、村名これに因る」と記す。


仁田村
にたむら

[現在地名]多気町仁田

西山にしやま村の西南にあり、村内を和歌山別街道が走る。佐奈さな川が南を流れ、その南に五桂ごかつら村の集落がある。街道左右にある二ッ井について、「五鈴遺響」は「二ツ井、同処ニアリ、土人伝云古昔弘法大師堀シム井ナリ、其一ハ清潔ニシテ其二ハ濁汚ナリ、奇トスヘシト云」と記す。この井戸は現在も利用されている。付近に二井・花井・井端・井上などの姓があるのは、二ッ井にちなむものであろう。りん幸次こうじ清水しみず西にしえだきりむねまつやなぎながなどの字名はすべて狭間はざまを付してよばれ、地形が錯綜し、沼田が多い。


仁田村
にたむら

[現在地名]榛原町仁田

植松うえまつ村の北に位置し、村の南端を流れる勝間田かつまた川の左岸に立地する。西はなか村。享禄五年(一五三二)四月二一日の今川氏輝判物写(三浦文書)勝田かつまた庄内仁田とある(→勝田・勝間田。天文二四年(一五五五)数年にわたる旱魃によって困窮し過分の借銭・借米を負った三浦左京亮元政は、仁田村(年貢米二〇一俵二斗)の知行分を五二〇貫文で売却することによって進退の相続を今川義元に訴えた。


仁田村
にたむら

[現在地名]寒河江市日田につた

楯北たてきた村の東、寒河江川と最上川の合流点の南西部に位置する。ニッタともいう。最上氏改易後、村は左沢藩領と上山藩領の相給村となり、のちこの時の左沢藩領分を仁田村、上山藩領分を新田につた村とよぶようになる。集落・田畑とも入交じっていて地域的な区分はできない。元亨年間(一三二一―二四)仁田某が鎌倉から来住して開村し、館を築いたと伝え、仁田の地名は開発土豪の名にちなむという。明応八年(一四九九)五月三日、大江知広夫人澄江ちようこう院に「につた」に所在する夫人の「ちやたう(茶湯カ)ふん」を寄進しているが(「せんゑいきた寄進状」澄江寺文書)、この「につた」は当地のことであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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